父が育った児童養護施設で

「綺麗でしょう?」

気持ちがようやく落ち着いたころ、背後から近づく気配があって声がした。佳菜子が振り返れば、薄いグレーの修道服に身を包んだ老齢の修道女が立っていた。
「ええ……つい見とれてしまって……勝手にすみません」

「いえ、構いませんよ。ここは教会ですから、何者も拒みません。それに、この場所にいらっしゃる方は皆さん、この木に惹かれるようです」

シスターの包み込むような雰囲気がそうさせるのか、それともこの光景のせいかは分からないが、気がつくと佳菜子は自然と口を開いていた。

「亡くなった父が、『青色の梅の花が見たい』と何度も言っていたんです。でも、何のことだか私には分からなくて……それで、実家の整理をしていたら、故郷の丘に梅の木があると知って。ようやく、父の言葉の意味が分かりました」

「そうですか。昔、ここは児童養護施設をしていましてね。夜は暗いので出歩いてはいけないんですけれど、どうしてもこの夜の梅が見たいからって、みんな内緒で抜けだしたりしたものです」

修道女が小さく笑う。つられて佳菜子の口の端もほころんだが、言い方が少し気になった。

「もう施設はやられてないんですか?」

「ええ。15年ほど前に。今は少子化ですし、もともと経営も順調とは言い難かったですから」

「そうですか……」

ついこの前まで関係なかったはずなのに、なぜか佳菜子が寂しい気持ちになる。父は施設の閉鎖を知っていたのだろうか。

物思いに耽りそうになる佳菜子を、修道女が小さな声で呼び止めた。

「もし人違いでしたら、忘れていただけると嬉しいんですが、ひょっとすると、あなたのお父様のお名前は、藤川雄弥さんとおっしゃるのではありませんか?」
「え? どうして父の名前を……?」

予想もしていなかった言葉に困惑する佳菜子をよそに、修道女は小さく微笑む。

「やっぱりそうでしたか。優しい目元なんかそっくりです」

「いえ、そんな」

佳菜子は反射的にかぶりを振った。父と似ていると言われたが、不思議と嫌悪感は湧かなかった。嫌いだった目元に、しわが寄る。

「雄弥さんは、ちょうど私の5つ年上の、頼りになるお兄さんでね。私もみんなも兄のように慕っていました。施設から出たあとも、お金や玩具を寄付してくれていました。結婚するときには、奥様を連れて梅の木を見に来てもくれていました。もう50年以上も昔のことですけれど」

父の日記に書かれていたことだろう。

修道女が嘘を吐く理由がないことも、どれもこれも事実であることも、頭では分かっているはずなのに、どうしても佳菜子が知っている父の姿とは結びつかなかった。

「雄弥さんは、どんなお父さんだったのですか?」

だから彼女に訪ねられても、佳菜子は黙るしかなかった。言えるはずがないと思った。借金とギャンブル、暴力で家族を壊した最低な父親だったとは言えなかった。

「分からないんです。分からないから、父の言葉の意味を知りたくて、ここまで来たんです」

「そうでしたか」

修道女はそれ以上深く聞かず、穏やかにうなずいた。

「答えは見つかりましたか?」

「どうなんでしょう。より分からなくなったかもしれません」

「そうだ。少しお待ちいただけますか? お渡ししたいものがあるんです」

そう言って教会のなかへ消えていった修道女が戻ってくると、彼女の手には1枚の古い写真があった。写っているのは、若き日の父と母が梅の木の前で並んでいる姿。

「以前、ご挨拶に来てくださったとき、せっかくだからと撮ったんですけれど、恥ずかしいの一点張りでもらってくれなくてね」

それは少しだけ、父らしいと思った。

「この写真は差し上げます。あなたが持っているほうが、雄弥さんも喜ぶと思いますから」

佳菜子は修道女にお礼を言ってから、再び梅の木を見上げた。父がどんな思いでこの梅を見上げていたのか、ほんの少しだけ理解できるような気がした。

風が吹く。青い花びらが微笑むように揺れる。

※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。