妻にとっての「いい生活」とは

ネクタイピンのことを訊ねることができないまま、時間ばかりが過ぎていった。

相変わらず瑠美は妹夫婦のもとへ行くと頻繁に家を空け続ける。大輔のなかで疑念は強まり、確信に変化しつつあった。このままではいけないと思う以上に、自分を裏切っている瑠美を許せないと思った。

「ねえ、週末なんだけど、奈美がまた夜勤なんだって。だから行ってくるね」

行ってもいいかという相談ではなく、行くのが当然と言わんばかりの決定事項のように言われたことが、無性に腹立たしく思えた。大輔は夕食を食べるのを止め、箸をおいた。

「それってさ、瑠美が行かなくちゃいけないことなのか?」

予想していなかった大輔の反応に、瑠美は目を丸くする。後ろめたいことがあるに違いないと、大輔は思った。

「……まあ、そうかな。親もまあ、もう年だし」

「さすがに多い気がするんだよ。とくに週末は、夫婦で過ごせる時間だろ?」

大輔が言うと、瑠美は難しい顔になって目を伏せた。大輔は一度席を外し、寝室に置いてある通勤かばんからネクタイピンを取り出す。リビングに戻り、深く息を吸う。

「疑ってるわけじゃない。だけど、不安なんだ。瑠美、お前が浮気してるんじゃないかって」

「は? 浮気? 何で私がそんなこと」

浮気している人間は、きっとそう簡単に罪を認めたりはしないだろう。まして大輔は何一つ不自由ない暮らしを瑠美に与えている。今の生活を維持するためにも、瑠美が浮気を認めるはずがなかった。

「じゃあこれは何だ? ベッドの下に落ちてたよ。誰のネクタイピンだ?」

瑠美は目を見開いていた。言い分けのしようがない物証だ。だが、瑠美の口から放たれたのは、大輔が予想だにしていない毅然(きぜん)とした言葉だった。

「誰のって、あなたのでしょ」

「は?」

大輔が気の抜けた声を吐くと、瑠美は深いため息を吐いた。

「忘れっちゃったんだ」

「忘れた? 俺が何を忘れたっていうんだ」

瑠美はしばらくスマホをいじり、やがて画面を大輔に見せた。画面には付き合い始めたころの2人の写真が表示されている。背景のガラス一面の夜景や、2人のあいだにあるバースデープレートを見るに、大輔の誕生日を初めて祝ったときのものだった。瑠美のきれいなネイルアートの施された指が、写真に写る大輔を拡大した。

「よく見て。これでもまだ覚えてない?」

大輔は目を凝らした。拡大しているので画像はやや粗いが、今テーブルの上にあるのと同じネクタイピンが大輔の胸元で光っていた。

「このとき、俺は瑠美にプレゼントをもらって、うれしくてその場で身につけた……」

瑠美はうなずいて、スマホの画面を消した。

「だから、このネクタイピンはあなたの。私が、あなたにあげた最初のプレゼント」

大輔はぼうぜんとネクタイピンに視線を落とした。どうしてこんな大切なことを忘れていたんだろうか。疑心暗鬼に駆られ、自分の行いは正しいはずだと棚に上げ、妻を疑った。間抜けだった。最低だった。

「本当にごめん。どうして、そんな大事なこと……本当にごめん」

「まったく、バカなんだから。勝手に疑心暗鬼になって、私のこと疑ってさ。夫婦の時間がないのだって、そりゃ最近はめいっ子がかわいくて家を空けてたかもしれないけど、元はと言えば、あなたが仕事仕事で全然家にいないからじゃない」

「それは、瑠美にいい生活を送ってほしくて――」

「私にとってのいい生活は、大好きな人と過ごすことだよ。お金じゃない。そりゃお金はないよりあるほうがいいし、あなたが頑張ってるのも分かってる。だけど、あなたと一緒にいられるのが私にとって1番大事」

大輔は瑠美に向けるべき正しい言葉を探した。だがそんなものはひとつしかなかった。

「……ごめん。俺が間違ってた」

「べつにいいよ。最近なんか様子がおかしいなって思ってたし。

瑠美に言われてかなわないなと思った。生活を支えているつもりでいたが、そんなものはささいなことだった。そもそも大輔が仕事を頑張ろうと思えていたのは、瑠美がいるからだ。

「なあ、奈美ちゃんのところ、俺も一緒に行っていいかな?」

「いいの? せっかくの休みだし、家でのんびりしたいんじゃない?」

「瑠美と一緒に過ごしたいんだ。それに、将来的に、慣れておいたほうがいいかもしれないし。今はできることなんてほとんどないと思うから、足手まといかもしれないけど」

 大輔が言うと、瑠美はほほ笑んだ。

「じゃあ、奈美のところ行く前にランチしようよ。ちょうど行ってみたいお店があるんだ」

複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。