板長が切り出した予想外の話

その席で、板長が申し訳なさそうに切り出したのが「年内でお暇させてください」という予想外の申し出でした。「どこに行くの?」と尋ねると、店の常連さんの卸売会社の社長が新しく始めるインバウンド(訪日外国人観光客)向けの日本料理店だと言います。

まさか私の知らないところでそんな引き抜き話が進められていたとは、想像すらしませんでした。大失策です。

板長にはそれなりの報酬を払ってきたつもりですが、この2~3年ほどはアルバイトの確保が最優先課題となり、昇給らしい昇給ができていませんでした。板長の「店が大変な時ですし、私は今のままで十分です」という言葉に甘えていたのです。

料理人の世界も人材難で、あの社長なら相当な待遇を用意したはずです。資金力では勝負になりませんし、引き止めるのは不可能だと思いました。

その時、板長がぽつりと言ったのです。

「お金じゃありません。社長は、『お前の日本料理を極めてほしい』と言いました。この店を開く時、大将と目指した先も同じだったはずです。なのに、大将はいつの間にか経営者になってしまった。経費削減は結構ですが、材料や料理の質にまで手を着けてほしくなかったというのが正直な気持ちです」

正論過ぎて全く反論ができませんでした。特にコロナ後は店の経営にばかり目が行き、板長が指摘した「料理人の良心」を失っていました。板長は、そんな私に我慢がならなかったのでしょう。

そろそろ店を閉める頃合いかなと思いました。

働き手の絶対数が足りず、建設や物流、飲食などの現場仕事で「人手不足倒産」や「人手不足閉店」が急増しているというニュースを見たのはつい先日のことです。

うちも今閉めたら、「人手不足閉店」と言われてしまうのだろうか。全然違うのにな。

様々な思いを巡らせながら、板長が注いでくれた酒を一気に飲み干しました。

※個人が特定されないよう事例を一部変更、再構成しています。