子育てには最適だった

結局この日は何も決まらなかったが、給料と現在の生活費を照らし合わせ、貯金なども考慮した丁寧な説明に麻美はしぶしぶ折れることになった。

ハウスキーパーを解約し、当然、奥さま会だってなくなった。エステティックに通う頻度も減らし、新作が出るたびに買っていたブランド品も着ないものはフリマアプリに出した。タワマンでの生活から唯一残ったのは、月に1度通っていたネイルサロンだけだった。

不満はいくらでもある。フードデリバリーで選べる店は格段に減ったし、ネイルサロンに通うのだって地下鉄を乗り継がないといけなくなった。あれほど執心していたInstagramも更新しなくなり、もう何カ月もログインすらしていない。

玄関の引き戸が開いた音がした。ただいま、と元気のいい声が家のなかに響き渡る。

リフォームはしたものの、古い家なので音がよく響く。隣家と離れていることだけが幸いだが、生活音は外にもよく聞こえているだろうと思った。

「おかえり」

ソファから体を起こして、息子を出迎える。

「今から、優ちゃんの家に遊びに行ってくるから!」

優ちゃんとは転校した先の小学校で初めてできた友達の男子生徒だ。

「はい、遅くならないようね」

「分かってる!」

ランドセルをサッカーボールに持ち替えて、息子はさっそうと家を出て行った。

子供の将来のお金を蓄えるために、この家に引っ越してきたのだが、お金のこと以上に良かったのが、子供は転校先で友達ができ、楽しそうな毎日を送っていることだ。前のタワマンでは真っすぐに家に帰ってきていた息子は、引っ越したことでずいぶんと活発になった。家の周りには子供たちの遊び場もたくさんあり、子供を育てる環境としてはとても良かったのだと思う。

麻美は水仕事をするようになってから皺(しわ)の増えた手をぼんやりと眺めた。今日は1日、掃除や洗濯で動き回っていたせいか、おなかが空いていた。

今日の献立は何だろうかと考える。あとで宗尊に連絡してみようと思った。引っ越してから宗尊が料理をしてくれるようになった。最初は麻美のご機嫌取りで始めたのだろうと思っていたが、宗尊は持ち前の凝り性を発揮して、今では立派な趣味になっている。この前の週末は半日かけてスパイスからカレーを作っていて、麻美のほうがあきれてしまったくらいだ。

窓から差し込む夕日は穏やかで、タワマンにいたときは決して聞こえなかった鈴虫の鳴く声が聞こえていた。

麻美はスマホをかまえて窓から見える何でもない庭の風景を写真に撮った。そのうち気が向いたら、この写真も投稿してみようか。

今の暮らしだって皆に見せてもいいかと思えるくらいには、幸せだった。

複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。