美織がリビングの扉を開けると、食欲をそそる匂いとともに夫の健治が出迎えた。

「おかえり。ご飯、もうすぐできるよ」

「ただいま。最近任せてばかりでごめんね。ありがとう」

美織は、ジャケットを脱いで椅子の背もたれに掛けながら、健治に答えた。グラスになみなみ注いだウオーターサーバーの水を飲み干して、ようやく人心地つく。冷たい水が食道を通って空っぽの胃に落ちていく感覚は、家の外で1日気を張っていた美織の心をリラックスさせてくれた。

「いいにおい」

「もうすぐできるから着替えておいで」

寝室に向かった美織は長い髪を無造作にまとめ、時計やネックレスなどの装飾品を1つ1つ外して部屋着に着替える。リビングへ戻ると。ダイニングテーブルの上には出来上がったばかりの料理が次々と並んでいた。

夕食のメニューは、野菜が中心で低カロリーな食材を使ったメニューが多かった。今日の料理担当である健治が、最近糖質を気にしている美織に配慮して献立を考えてくれたのだろう。美織は、夫の気遣いに感謝しながら食卓についた。

大学生の娘の香奈が自室から出てきて家族3人が席にそろうと、健治がサラダを取り分けながらさりげない調子で美織に尋ねてきた。

「それで、今日の試験はどうだったんだ?」

「うん、何も問題なかったよ。真面目に講習を受けてさえいれば合格できるようになってるの。それよりも、これからやらないといけないことのほうが大変。想像以上に忙しくなりそう」

「そういう割には楽しそうじゃない、ママ」

「まあね。会社にいたころより、ずっと楽しいわ」

美織は今、夢だったカフェ開業に向けて準備を進めている。今日は食品衛生責任者の資格を取得するため、講習会と修了試験を受けに行っていた。

食品衛生責任者資格は、飲食店を営業するにあたって必要不可欠な資格で、1店舗に1人はこの資格の保有者を設置しなければならないと食品衛生法で決まっている。

身体は疲労感に漬かっている。しかし気分が晴れやかなのは、毎日が充実しているからだろう。こんな心持ちでいられるなんて、数カ月前まで務めていた広告会社にいたころでは考えられないことだった。

給料はそれなりによかったものの、残業も多く体力的にもきつい職場だったと言えるだろう。それでも20年以上働き続けることができたのは、尊敬できる先輩や上司、頼れる後輩がいたからだった。