窓の外はどんよりと曇っていた。梅雨の長雨のせいでもう何日も洗濯物を外に干せていなかった。紀子は思わず吐きそうになったため息をのみ込んで、インスタントのホットコーヒーで唇を湿らせた。
紀子の前では、息子の拓也が空以上に曇った表情で、朝食のトーストを小さくかじっている。拓也は9歳の小学3年生。普段は明るい子なのだが、ここ1カ月ほどはずっと浮かない表情をしていた。
「拓也、そろそろ行かないと遅刻しちゃうよ」
「うん……」
拓也は黙り込むが、力の入った肩やうつむいた表情は学校に行きたくないことを訴えている。なるべく拓也の気持ちは尊重してあげたいと思う一方で、簡単に休ませて、それが癖にでもなってしまったらよくないとも思う。
「ほら、拓也。しっかり。今日は夕飯に拓也の好きなハンバーグ作るから」
紀子は拓也を立たせてランドセルを背負わせる。手をつないで集団登校の輪までつれていく。
「お、長尾ちゃんとたっくんじゃん」
集団登校の輪に近づく紀子たちを見つけた派手な女性が手を振った。
乱雑にまとめた髪の毛は白に近い金髪で、下はだるっとしたシルエットのピンク色のスエット。丈の短い白いTシャツの裾からは、へそのピアスがのぞいている。
「おはようございます。福田さん」
「やだやだ。敬語やめてって言ってんじゃん。明日香でいいって!」
明日香は紀子の肩をたたく。指先では紫と銀のラメに彩られた魔女の爪のようなとがったネイルが光っていた。
彼女はまだ24歳だが、高校を卒業してすぐ子供を産んだらしく、すでに3人の母親だ。派手な外見とは裏腹に、堅実に明るく家庭を切り盛りしている。
「あ、そうそう。今日、あとで長尾ちゃんの会社行くね。むかし旦那が買ってきた変なTシャツ売れたんで。ほら、やばいでしょ、このデザイン」
明日香はスマホでフリマアプリの管理画面を見せてくる。右上に赤字で“SOLD”と表示されているTシャツは、胸にピンク色のぶよぶよした見た目のキャラクターがプリントされていて、頭上には“MELT!!”とポップな文字が躍っていた。
「ぱっと見だとかわいい風だけどさ、やっぱありよりのなしだよねぇ」
明日香の口から繰り出される耳慣れない言葉と朝からエンジン全開のテンションに圧倒されながら紀子はうなずく。やがて、別の親子が来ると明日香はそっちのほうへあいさつに行ってしまった。
学校へ向かって歩き出した拓也の丸まった背中を見送って、家に戻った紀子は自分の出勤の準備に取り掛かる。春に夫と離婚した紀子は、新天地を求めてこの町に引っ越してきた。知り合いの1人もいないこの町を選んだのは、就職先の運送会社に通うためだ。
大学を出てすぐに結婚し、専業主婦になった紀子にはほとんど社会人経験がなかった。当然、30歳を過ぎて就労経験のない紀子の就職活動は難航した。パートなら、もっと楽に仕事を見つけることもできたのだろう。しかし拓也の将来――高校や大学のことを考えれば、正社員での雇用は譲れない条件だった。
しかし今ではそのこだわりが正しかったのか、紀子は自信が持てなくなっている。親の都合で転校することになった拓也は、見ての通り新しい学校になじめていない。仲の良かった友達と離れ、ひとり親になり、激変した環境のなかでふさぎ込んでいるのは明らかだった。
拓也が楽しく過ごせるように、できることはないだろうか。もし自分が明日香のように竹を割ったような性格だったなら、こんな風に悩むこともないんだろう。会社に向かう自転車をこぎながら、今日、あの変なTシャツを配送しにやってくる彼女のことを思い浮かべて、少しうらやましく感じた。