小さな花束

その日もいつものようにテキストを読んでいると、管理人室のガラスが2度ノックされた。隆はのっそりと顔を上げる。住人であればこの程度のことでいちいち文句を言ってきたりはしないから、油断していた。

ガラスの向こうに立っていたのは権堂だった。

「ご、権堂さん……⁉」

「やあ、清水くん。久しぶり」

顔から血の気が引いていく。反射的に閉じたテキストは脇に置いてあったリュックサックのなかに押し込んだ。

「ちょっと近くに寄ったから、どんな様子かと思ってね。はい、これ差し入れ」

管理人室に招き入れると、権堂は手に提げている紙袋を手渡した。なかには高そうな包みに入ったクッキーが入っている。隆は権堂の気遣いに、罪悪感で胸が押しつぶされそうになる。

「それで、何してたんだ?」

当然、仕事をサボっていたことは見られている。素直に話すしかないと思った。クビになることも覚悟の上で、隆は頭を下げた。

「すいません。か、介護資格を取得しようと思いまして、その勉強を、してました……」

「ほお、なるほど。介護資格か」

権堂は興味深そうに教材に目を落とす。

「……あの、本当に申し訳ありませんでした」

頭を下げ続ける隆の肩に、権堂の手が置かれた。

「いやいや、謝ることなんて何もないだろう。長い時間こんな部屋に閉じ込められてるんだ。何かしたくなる気持ちはよく分かる」

「……え?」

「いいじゃないか。資格の勉強。業務がおろそかにならない程度にやったらいい。清水くん、評判いいんだよ。マンションのまわりがきれいになったって、住人から管理会社に報告があったそうだ」

隆は顔を上げた。権堂はいつものようにほほ笑んでいた。

「それに、その年でいまだに挑戦をするなんてすごいことだ。私も見習わなくちゃな」

「あ、あの、これからも勉強をしていいんですか?」

「当たり前だろ。好きにやってくれ。まあ、君が資格を無事に取って、辞めることになったら、それは実に惜しいが、私は応援するよ」

権堂の言葉は、隆にとって大きな力になった。その後、隆は無事に資格試験に合格し、悩んだ末に介護の仕事をすることに決めた。

管理人として最後の勤務日。仕事を終えて後片付けをしていると、権堂が小さな花束を持ってあいさつに来てくれた。

「お疲れさん、これからも大変なことが多いと思うけど、頑張るんだよ」

隆はこみ上げてくる感情を抑え、花束を受け取る。

「ありがとうございました。このご恩は、一生忘れません」

「大げさだよ。私も清水さんを雇って良かった」

隆は権堂の笑顔に見送られながら、管理人室を後にする。

多くの人に支えられて自分がある。そう思うと、前へ進む足がとても軽くなる気がした。

複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。