装備と経験の重要性を痛感
山小屋の戸を閉めると、吹きつけていた風の音が一段遠のいた。薪ストーブの前に座るよう促され、弘子は手袋を外して指を曲げ伸ばしする。血が戻るにつれ、じんと鈍い痛みが走った。
俊は俯いたまま、湯の入ったカップを両手で抱えている。琢也も黙って湯をすすり、ときどき視線だけで弘子の様子を確かめていた。
老人は棚からスコップと砂の袋、牽引ロープ、簡易チェーンを手際よく出しながら、小言をこぼす。
「まったく、装備なしで山に入るなんて自殺行為だ。予報を過信するな」
弘子は「すみません」とだけ答えた。言い訳をしても、体が冷え切った事実は変わらない。
やがて外の風音が少し落ち着いた頃、老人が立ち上がった。
「今なら戻れる。行くぞ」
再び四駆に乗り、立ち往生した車の前へ戻る。老人は後輪を覗き込み、迷いなく指示を出した。
「坊主は車で待ってろ。旦那、掘るのはここだ。踏み面を作ってから砂」
琢也が雪を掘り、老人が砂を押し込む。牽引フックを確認し、ロープを掛ける。
「奥さん、運転席に」
「はい」
「合図でアクセル。ただし踏みすぎるな」
弘子はハンドルを握り、老人の腕の動きを見つめた。
「今だ。ゆっくり」
1度目は空回りし、「止めろ」と声が飛ぶ。2度目、砂を噛んだタイヤが路面を捉え、車体が前へ抜けた。弘子はブレーキを踏み、長く息を吐く。老人は簡易チェーンを片側に当て、砂の袋を渡した。
「全部は要らんと思うが、一応持っとけ。ハマりそうなら無理に踏むな。止めてから砂だ」
「本当にありがとうございます」
「必ずお返しします」
連絡先を書いた紙を受け取り、弘子は深く頭を下げた。市街地に入った頃、俊が小さく言った。
「ママ、さっきはごめん」
「……今回は結果的に助かったけど、もう勝手に触らないで。怪我してたかもしれない」
「うん……ごめんなさい」
気まずそうな琢也も続ける。
「俺もごめん。任せきりだった。装備、今度は一緒に決めよう」
「そうだね。帰ったら話そう」
義実家の門灯が見えたとき、弘子の肩から力が抜けた。
「着いた……」
「運転お疲れさま」
「ありがとう、ママ」
弘子はうなずき、ガレージに車を停めた。エンジンを切ると、まるで時間が止まったかのように音が消える。フロントガラスから見上げる空の雲間には、いつの間にか星が瞬いていた。
※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。
