発炎筒の煙に気づいた山小屋の男

発炎筒の赤い光が消えてから、どれほど時間が経ったのか分からない。時計を見る気にもなれなかった。

暖房を入れているのに、靴底からじわじわと冷気が這い上がってくる。曇った窓ガラスを拭いて目を凝らしても、道路を通る車は1台も見当たらない。

「やっぱり、だめだ」

弘子はスマホを握ったまま、何度目かの確認をする。

圏外。

琢也の端末も同じだった。さっき車外で試しても変わらなかったことが、余計に気持ちを沈ませる。後部座席の俊は膝を抱えて黙り込み、琢也も前を見たまま動かない。今余計な口を開けば、また責め合いになるだろう。

(どうしよう……もう歩いて下山するしか……)

そのときだった。

雪の向こうでライトが揺れ、低いエンジン音が近づいてきた。車が横に止まり、ドアの開く音がする。続いて、窓を叩く硬い音。

「おーい。生きてるか」

低い声だった。

弘子は反射的に体を固くし、窓を少しだけ下げる。帽子の男が覗き込んでいる。年配で、頬は風に晒され赤いが、目は落ち着いていた。

「あんたらだろ。さっき発炎筒焚いたの」

「え……」

男は煙の残り香でも確かめるように鼻を動かす。

「あれ見て来た。スリップしたんだな」

「はい。空回りして動かせなくて、携帯も圏外で……」

事情を説明すると、男は短く鼻を鳴らした。

「当たり前だ。ここは山の中だ」

「あの……あなたは?」

「この先の山小屋に住んでる。煙に気づいたのは偶然だ。運が良かったな」

小言を口にしながらも、視線はすぐ車体の後ろへ向く。

「埋まったのは後輪か」

「はい……」

弘子が外へ出ると、雪が足首に入り、冷たさが一気に刺さった。男は後輪の溝を一目見て舌打ちする。

「見事にハマったな。今ここで掘っても凍えるだけだ。一旦、俺の小屋へ行くぞ。子どもを先に乗せろ」

命令口調だが、乱暴さはない。慣れた判断だった。

最低限の荷物をまとめ、3人は男の四駆に移る。太いタイヤが雪を噛み、車は静かに走り出した。

「吹雪がやむまで待つ。車はそれからだ」

白い闇の先に、やがて小さな灯りが浮かぶ。木陰に佇む山小屋の明かりを見た瞬間、弘子はようやく胸の奥に溜めていた息を吐いた。