よみがえる過去の記憶

夜の空気は重く湿っていた。健司は、鍵を回して玄関を開けた。

段ボールの中、猫はまだ眠っていた。薄暗がりにうずくまる背中が、規則的に上下している。毛並みの間に、土の粒がまだ残っていた。

「また厄介なもんを」

戸を閉めると、ひとつ息を吐いた。

夕方、坂道を猫を抱えて歩いた腕に、まだじんとした重さが残っている。動物病院では長く待たされた。白い壁、乾いた空気。金属の台。誰とも目を合わせず、ただ頷いた。猫が妊娠していると知らされた時も、健司は何も返さなかった。足は比較的軽度の捻挫で、自然治癒を待つこととなった。

居間の隅、古新聞と雑多な袋が崩れていた。しゃがんでひとつひとつ手に取り、潰し、束ねる。引き出しの奥に触れると、指先に冷たい金属が当たった。琺瑯のやかん。その隣に、くたびれた茶色い紙袋が挟まっていた。「びわ葉」と、薄墨の手書き風レタリング。袋は空だった。

「買いに行かねえと」

妻は闘病中、びわ茶ばかり飲んでいた。熱が引かない夜も、食欲のない朝も、湯気の中に顔を伏せていた。彼女がいなくなった後も、健司はそのまま、同じものを飲み続けていた。味わうこともなく。

指で空袋をなぞってから、立ち上がり、ひと折りしてゴミ箱に落とした。音はしなかったが、それでも健司はしばらくゴミ箱の口を見つめていた。

意識は記憶の中へ沈んでいく。

校庭の列。

背筋を伸ばせと号令が飛ぶ。

誰かが泥を蹴り上げる。

遅れた足に、湿った笑いが突き刺さる――。

片付けを終え、居間に戻ると、部屋の温度が少し下がっていた。窓を閉めると、外の風が途切れた。猫の寝床の毛布が少しだけ動いた。小さく寝返りを打ったのかもしれない。

「冗談じゃねぇ……」

健司は、琺瑯のやかんに水を入れ、火にかけた。間もなく立ち昇る湯気が少しずつ部屋に広がっていった。

●近所との折り合いが悪く、悪態をついてばかりの健司は一匹の猫と出合う。自分の境遇と重ね、過去と向き合ううちに思いもよらない変化が…… 後編【悲惨な過去を抱え、孤独だった高齢男性の家に響く子どもたちの声…猫が運んできた“予想外の日常”】にて、詳細をお伝えします。

※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。