氷川家のリビングには三毛猫のモモがいる。それは当たり前の光景で、その当たり前がなくなるなんて汐里には想像もつかなかった。けれどもその日が間近に迫っていることを、近頃では痛いほど思い知らされる。モモはもう18歳で、食欲もなく起きている時間がかなり少なくなった。獣医からは「静かに余生を過ごさせてあげてください」と告げられていた。

「……柚に連絡してもいい?」

汐里がおずおずと夫である慎吾に尋ねた。娘である柚に連絡するのになぜ慎吾の許可を取る必要があるのか。それは3年前に柚が当時の婚約者を巡って慎吾と口論となって家を出て以来、柚と慎吾が疎遠になっていたからだ。しかし、柚が小学校入学と同時に飼い始めたモモがいつどうなってもおかしくないとなれば、知らせないわけにはいかなかった。柚にモモの事情と会いに来てやってほしい旨のメッセージをすると、「週末に帰る」とだけ返事が来た。

玄関に現れた柚は、以前よりも少し痩せたように見えた。結婚して一年後には弁護士を交えての離婚調停になったのだから無理もないのかもしれないが。

汐里は何事もなかったかのように「お帰り」と笑顔で迎えた。柚は「ただいま」ではなく「お邪魔します」と言って、警戒するようにリビングに入った。慎吾はダイニングテーブルの椅子に座り、新聞紙で顔を隠している。柚は慎吾のことは敢えて見ようとせず、定位置である窓際のクッションにモモの姿を見つけると、そばに寄り添った。

「モモ、……久しぶりだね。元気だった?」

 柚の声に応えるように、モモはか細く鳴いた。柚は小さい声で何かをささやきながら、いつまでもモモを撫で続けている。モモはちゃんと柚のことを覚えているのだろう、にゃあにゃあと鳴き続けている。柚とモモを再び会わせることができてほっとしたものの、結局言葉を交わさずじまいだった柚と慎吾の関係性に、汐里は胸を痛めるのだった。

それから、柚は週に何度か実家を訪れるようになった。慎吾も柚も、互いに警戒する態度を崩さなかった。

「もうちょっと来てやればいいのに」

ある日、唐突に慎吾が柚に言った。モモを撫でていた柚が、途端にピリつく。

「仕方ないじゃない、こっちだって仕事あるんだし」

慎吾が応戦しようとしているのを察知し、汐里はジャガイモをつぶす手を止めて仲裁に入った。

「ちょっと、やめてよ。モモがびっくりしちゃうじゃないの」

モモを引き合いに出されたことで、2人はそれぞれ、その後の言葉を飲みこんだ。慎吾の言わんとしていることはわかる。どうして2人とも、もう少し素直に気持ちを表せないものかと、汐里はこめかみを揉んだ。

その日の帰り際、柚は名残惜しそうにいつまでもモモのそばから離れようとしなかった。

「また必ず来るからね。絶対に元気でいてね」

そんな柚の姿に、汐里の胸が締め付けられた。