モモとの思い出

そして、その日は訪れた。モモは朝からほとんど動かず、水分を口に含ませるのがやっとだった。柚に連絡すると、会社を早退してモモのもとに駆けつけるという。だが1時間ほどして、再び柚から切羽詰まった様子で電話がかかってきた。

「今隣の駅。電車が止まっちゃって、タクシーもすごい並んでて……。どうしよう、間に合わなかったら……」

それを伝えるやいなや、慎吾が車のキーを持って家を飛び出した。汐里は祈るような気持ちで時計を見つめる。

30分後に聞き慣れたエンジン音が聞こえた時、汐里は思わず安堵のため息をついた。

「モモ、柚来たよ」

その瞬間、モモの耳がぴくりと動き、手で空気をかくような仕草をした。起き上がろうとしているのだ、と汐里は思った。けれどもモモが起き上がるよりも早く、汐里がモモのそばに寄り添う。

「モモ、モモ、モモ……」

柚が何度も名前を呼びながらモモを抱き上げ、頬をすり寄せた。モモは「にゃあ」とか細い声で鳴き、柚の頬を舐めた。その光景は、まだ柚が小学生だった頃、泣いて学校から帰ってきた柚の頬を「まったく世話が焼けるねぇ」と言わんばかりにモモが舐め続けていたあの頃のもののように汐里には見えた。

その瞬間、モモとの思い出が津波のように汐里の記憶を覆い尽くす。いつだってその愛くるしい姿で家族を癒やしてくれたモモ。足元におでこを撫でつけるように甘えてきたモモ。食いしん坊でおやつが大好きだったモモ。窓際のクッションにへそ天で寝ていたモモ。誰かが落ち込んでいるといつの間にかそばに居てくれたモモ。

家族みんな、モモのことが大好きだった。モモを抱く柚に寄り添う慎吾を見つめながら、離れていても、モモの存在が家族を繋いでくれていたのかもしれないと、汐里は強く思った。

そしてとうとうモモは動かなくなった。柚の鼻をすする音が響く。

「柚が帰ってくるの、待ってたんだな」

慎吾がそう言って後ろを向いた。

「モモ、よく頑張ったねぇ。柚に会えてよかったねぇ」

汐里がそう言うと、たがが外れたのか柚が子供のように声をあげて泣き出した。

「やだやだやだあ、モモいかないでよぅ……」

リビングに柚の泣き声がいつまでも響いていた。

その日の夜、三人で食卓を囲んだが、誰の箸もその動きは鈍かった。まだそこにモモはいる。でもいない。埋めようのない大きな喪失感に、三人とも言葉を発することができずにいた。

リビングの片隅、モモがいつも寝ていた空のクッションを見つめながら、汐里はぽつりと呟いた。

「モモがいなかったら、柚も帰ってこなかったかもしれないね……」

柚も慎吾も、何も言わなかった。そして互いに目を合わせることもなくその夜を終えたのだった。

●こうして、一家の愛猫モモは旅立っていった。モモの旅立ちとときを同じくするように、凍り付いた柚と慎吾の関係に雪解けが訪れるように……。後編:【「お墓参りがてら、また来るね」亡き愛猫がもたらした父と娘の「雪解け」】にてさらに詳細をお届けします。

※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。