ちゃんとゴミ箱に捨てないと
2日目の朝、空はどんよりとした曇り空だったが、万姫たちは相変わらず明るい声で「今日はどこ行くか?」と浮き足立っていた。
観光地巡りの案内役を任された理沙は、ガイドブックを片手に計画を立てていた。
浅草の雷門をスタート地点にして、散策と食べ歩きを楽しむルートだ。
電車で移動し、観光地に到着したのは昼前。雷門の前で記念写真を撮ったあとは商店街を練り歩く。万姫一家は屋台の揚げ物や甘味を見つけるたびに立ち寄り、あれこれと買い込んではその場で食べ始める。
「好吃!(ハオチー!)」
楽しそうに盛り上がる彼らを見て、理沙も少しはホッとした。
だが、その安堵も束の間。彼らは食べ終わったお菓子の袋や空のペットボトルを近くのベンチや歩道の隅に置いたまま立ち去ろうとしたのだ。
「ちょっと万姫さん、食べ終わったらちゃんとゴミ箱に捨てないと……」
思わず声をかけると、彼女は平然とした顔で答えた。
「大丈夫。私、ゴミ捨てずにいても、誰か片付けるよ」
その無頓着な態度に、胸の中がざわつくのを感じた。周りの観光客が一斉にこちらを見たような気がして、恥ずかしさと苛立ちが交じり合った感情が押し寄せてきた。理沙は負の感情を振り払うように、万姫たちが放置したゴミを素早く集めて片付けた。しかし理沙の姿を見て、万姫は呆れたように言い放った。
「それ、理沙さんの仕事違う。理沙さん片付けたら、清掃員、仕事ない……」
どうやら清掃員の仕事を勝手に奪うな、ということらしい。
だが、日本では自分のゴミは、自分で片付けるのが当たり前だ。たとえ担当の清掃業者がいたとしても、公共の場所にゴミを放置するなど、理沙の感覚ではありえないことだった。
さらに追い打ちをかけたのは、次の屋台での出来事。
行列ができている人気の屋台で、万姫一家はまるで順番など気にすることもなく、平然と割り込んで注文を始めたのだ。
後ろに並んでいた観光客の1人が、小さく「え?」と呟く声が耳に入った。
「万姫さん、何やってるんですか! ちゃんと順番を守ってください!」
言葉を抑えきれずにそう伝えると、万姫は一瞬だけ驚いたように理沙を見つめ、それから軽く笑った。
「理沙さん、そんな堅いこと言わない。私たち観光客、行きたい場所たくさん。並ぶ時間もったいない」
その言葉を聞いた瞬間、心の中で何かが弾けた。
「堅いとか、そういう問題じゃありません! みんな順番に並んで待ってるんですから、みんなと同じようにしてください!」
思わず声を荒げた理沙に、周囲の視線が集まった。万姫は驚いた表情を浮かべたまま立ち尽くし、李偉も慌てて「理沙、落ち着いて」と間に入ろうとした。
しかし、抑えきれない感情が次々と言葉となって溢れ出した。
「昨日のレストランでの食べ残しも、今日のゴミのポイ捨ても同じです! なんでそんなにルーズなんですか? 日本に来たんだから、日本のルールをもう少し気にしてくれてもいいじゃないですか!」
「理沙さん、そんな怒らない。怒らないよ。これ、楽しい旅。理沙さん、これで満足ね?」
言葉の意味とは裏腹に呆れたように言うと、列の後ろへと並び直した。
夫が理沙には分からない中国語であいだを取り持とうと何か話していたが、当然意味は分からなかった。間違ったことは何も言っていないはずなのに、理沙は自分だけがこの場にふさわしくないのではないかと思った。
その証拠に、万姫はいつもの明るさを取り戻そうとするように義兄や甥っ子、夫の李偉と笑顔で接していたが、理沙とはほとんど目を合わせなかった。
●後編:【「日本のルールをもう少し気にして…」中国人の義理の姉を叱責した女性が、中国語を学びなおそうと決意したワケ】にてさらに詳細をお届けします。
※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。