出遅れている娘
その頃すでに、幼稚園のママ友たちの間では、どの小学校が良いか、受験準備にいくらかかるかが日常の話題になっていた。一美の家のお財布事情だって、決して余裕があるわけではない。
けれども美織1人だけならなんとかなるし、なんとかするのが親の愛の証だという考えすら一美にはあった。自分が決して受けられなかった愛情を、美織には自ら注いであげたい。その一心で、一美もお受験組のママ友の輪に入り、情報をかき集めるようになった。
小学校受験など縁遠かった一美にとって、知らないことばかりだった。
たとえば、年長時の幼児教室や塾の費用が一年間で100万円ほどかかる。模擬テストや教材購入費もそれぞれ10万円近くかかる。それだけではない。受験当日の服装にしても、3人分のスーツ、鞄、靴などを合わせれば30万円ほど見積もる必要がある。タクシー代などの雑費も10万円くらいで計算すれば、年長時だけで160万円ほど必要になる。もちろん入学してからかかる費用を考えれば、これは序の口と言えるだろう。
サラリーマンの康と専業主婦の一美の今の収入だけでは、苦しいのが現状だ。マンションのローンだってまだ30年以上残っているというのに。
けれども一美にとってもっともショックだったのは、すでに美織は出遅れているということだった。小学校受験の入試が年長時の10月から11月にかけて行われるため、新年度の塾のカリキュラムも11月から始まってしまっている。その事実も、一美を一層焦らせた。
だから一美は改めて覚悟を決め、康に切り出した。受験に向けて、すぐにでも動き出す必要があることを。
「美織が受験したいって、本当に思っているのかな?」
案の定、康は一美の話を途中で遮り、否定的な意見を口にした。
「その選択が本当に美織を幸せにするなら僕だって応援したい。だけど美織は、よくわかってないんじゃないかな」
「だからこそ、私たちが道を示してあげなきゃいけないのよ! 私たちだって年を取ってから美織を授かった。あの子に可能性を広げてあげるのは、私たちの責任じゃないの?」
「そうなんだけどさ。でもまだ小さいのに」
「わかるはずないって? そうかもしれない。でもいつか美織だってわかる日が来るはずよ。私たちが美織のためにした選択が、きっと最善だったんだって」
一美の声はどんどん熱を帯びていく。
「親なら、子供のためにどうするのがいいか一生懸命になるのは当たり前じゃない! そんな当たり前のこともしないで、親の資格なんてあるわけないのよ!」
途中から、一美の脳裏には両親の姿が浮かんでいた。「女に学はいらない」と言ってパチンコに給料の多くをつぎ込んだ父と、義務教育を終えたら家に金を入れろと言った母――。
気づけば一美は、自分の爪を太ももに食い込ませていた。
●両親のようにはなりたくないと、より一層、美織のお受験にのめりこんでいく一美。いつしか、お受験に否定だった康とは軋轢が生まれるように、そして美織からは笑顔が消えていった。後編:【「嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ…」お受験に没頭した母に突き付けられた無慈悲な結果、そして気づいた「親としてすべきこと」とは】ではより詳しくお届けします。
※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。