自らの過去と和世が重なる

実は春子もまた、過去に大きな喪失を経験していた。子どものいない春子だが、たった1度だけ妊娠したことがある。

10年前のことだ。

妊娠が分かったときは、夫婦そろって年がいもなくはしゃいだが、その命は生まれてからわずか数カ月で失われてしまった。そのときに買いそろえたベビー服は、いまだ捨てることもできず、ほとんど使われないまま寝室の奥に隠した段ボール箱にしまい込んだままになっている。

あのころ、春子は夫に支えられながらなんとか立ち直った。あるいは立ち直ったふりができるくらいにまで回復することができた。

だが、もしも夫がいなかったら――。そう考えるだけで、春子はぞっとする。喪失に押しつぶされていたのはきっと、春子のほうだったのかもしれない。

「……だけど、もう終わりね」

和世がふいに口を開いた。その目は遠くを見つめ、どこか穏やかだった。

「終わりって……?」

「昨日が夫の七回忌だったの」

和世のなかで、夫の死に区切りがついたのだろうか。

寂しさを埋めるように拾い集めたものたちが強制的に取り除かれたわけだが、和世は静かにその変化を受け入れているように見えた。あるいは、もうこの世に未練など何ひとつないと、すべてを諦めてしまったようでもあった。

「和世さん、実は……」

春子は意を決して口を開いた。和世は疲れ切った表情で、春子のことを見上げていた。

「……ご主人には生前、ずいぶんお世話になったんです……覚えてますか? 私たちがこの家に越してきたばかりのころ、庭の土のことで困っていたときに、ご主人がいろいろと教えてくれて……」

和世は目を丸くし、それから柔らかくほほ笑んだ。

「ああ、そうだったわね。あの人は庭いじりが好きだったから……私が花を育てるようになったのも、実を言うとあの人の影響なのよ」

「そうだったんですか……」

春子はその優しい表情に安心し、続けて言った。

「あの、もしよかったら、ご主人との思い出を聞かせていただけませんか……?」

和世は少し考えるようにしてから、小さくうなずいた。

「もちろんよ。あの人のことなら、話せることたくさんあるのよ」

「それじゃあ、着替えたらすぐにお邪魔しますね」

「ええ。幸い片付けられたばかりだから、家のなかはきれいなのよ。お茶入れて待ってるわね」

和世は重い腰を上げ、家のなかへと戻っていった。その背中に、かつての穏やかな隣人だった彼女の面影を感じるのは、あまりに都合のいい解釈だろうか。

春子は少しだけ口元を緩めながら、祈るような気持ちで和世のことを見つめていた。

複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。