蹴られた――気がした。
買い物袋を下げた美希は立ち止まり、ふくらみが目だってきたおなかをなでる。蹴られたのはもちろん、動いたのもたぶん気のせいだったが、美希の手のひらは確かな幸せに触れている。
もうすぐ28歳の誕生日を迎える美希は、昨年結婚した。婚姻届を出した後、間もなく1つ年下の夫・大輝との間に子供を授かり、現在は妊娠5カ月目になる。妊娠初期は特につわりがひどく、母の勧めもあって仕事を辞め、自宅で安静に過ごした。一時はどうなることかと思ったが、母のアドバイスのかいあってか、安定期を迎えると徐々に体調も落ち着いて、最近は問題なく家事全般をこなせるようになってきていた。
美希がスーパーの買い物袋を携えてマンションに戻り、郵便受けをチェックすると、そこにはひと際目を引く封筒があった。
封筒の真ん中には仰々しい赤い文字で“督促状”の文字が躍る。宛名は、岡本大輝――夫宛てだ。
何かの間違いだと思った。真面目さが取りえの大輝が、借金なんて愚かなまねをするはずがない。美希は部屋に入るなり、買い物袋を置いて封を切った。夫婦とはいえ、他人の郵便物を勝手に見るのは罪悪感があったが、督促状ともなれば話は別だった。
〈いまだお支払いが確認できておりません。つきましては、下記支払期日までにお振り込みいただきますよう――〉
冷たい文面とともに、当月返済分として10万近い金額が記載されていた。どうやら毎月決まった金額を返済していたようで、元金は減っていたが、もとの借入額の欄には120万円とあった。
「なにこれ……」
美希が吐き出した言葉は、冷たいフローリングの上に落ちて、いつまでもたゆたっていた。
気もそぞろで家事が手につかなかった美希のもとに大輝が帰宅したのは、それから数時間後のことだった。
「ねえ、大輝。この手紙、どういうこと?」
仕事終わりの夫に、美希は早速督促状を突き付けた。少し疲れた顔をした大輝は、一瞬だけ驚いたような表情を浮かべるが、すぐに目をそらし、言葉を濁した。
「ああ……それは、ちょっとした……」
「ちょっとした、じゃないでしょう? 督促状なんて生まれて初めて見たんだけど。いったい何にそんなお金使ったの?」
言い逃れをさせるつもりはなかった。やがて、大輝は観念したかのように目を閉じ、口を開いた。
「美希には話してなかったけど……実は結婚式のお金が足りなくてさ……その穴埋めのために借金してたんだ」
「結婚式のために……120万円も?」
美希の頭の中で、去年都内で挙げたホテルウエディングの光景が思い出された。
何かと格式を重んじる両親の要望をかなえていくうちに、ゲストに振る舞う料理や会場の装飾品、衣装なども天井知らずに高くなり、挙式費用が当初の予算を大幅にオーバーしたのは事実だった。特にウエディングドレスに関しては、母のアドバイスもあって人気ブランドの一点ものを選択していた。
当時の2人の給料と貯金では到底まかなえるような結婚式でなかったことは確かだ。だが、それなら――
「なんで黙って借金なんてしたの? お金なら、うちの親がいくらでも出してくれたのに……」
そもそも結婚式の費用も半分以上は美希の両親が出していた。美希の両親は地元で運送業の会社を経営している。大金持ちというほどではないが、地元じゃそれなりに名の知れた家柄で、美希自身も小学校から高校まで、世間ではお嬢さま学校と言われる女子校に通っていた。そんな家の一人娘の結婚式だからと張りきった両親は金に糸目をつけなかった。もちろん両親側にも自分たちの要望で費用がかさんでいる自覚はあっただろうから、言えばお金なんていくらでも出たはずだ。
「ごめん……でも、ご両親を頼るのは嫌だったんだ。俺は、母親1人で苦労してる姿を見てきたし……結婚する以上は自分の力でなんとかしたかったんだ」
彼なりの苦悩があったことは伝わってきたが、美希にはそれが今ひとつ理解できなかった。
「……でも、隠し事される方がよっぽど傷つく。夫婦なんだし、一言、相談してくれたっていいじゃん」
「本当にごめん……」
そう言って頭を下げる大輝の姿に、美希はなんとも言えない寂しさを覚えた。
夫が自分に隠し事をしていたこと、そしてその理由が美希の生活感覚とはかけ離れていたことが、じわじわと不安をかき立てていた。