社内に設置されたカフェテリアで、春樹はランチプレートの載ったトレーを持ったまま、空いている席を目で探した。ほとんどの部署が昼休みの時間帯だけあって、毎回テーブルを確保するのも一苦労だ。
「森田部長、こっち空いてますよ」
そのとき、ふと部下の太田から声をかけられ、ようやく春樹は彼が指さす席に腰を下ろした。
「相変わらずここは混んでますね」
苦笑いしながら紙ナプキンのホルダーを取ってくれた彼は、春樹が管理職に昇進して初めてできた部下だ。
意気衝天の若手社員だった太田も今や課長。一方の春樹は、今年いよいよ定年退職を迎える年齢になっていた。
「いやぁ、森田部長がいなくなると、寂しくなりますね。シニア雇用とかは使わないんですもんね」
「まあな。少しのんびりしようと思ってな」
「いいじゃないですか。奥さんも喜ぶんじゃないですか? どうせ森田部長、仕事一筋って感じでここまで来たんでしょうから、少しは家族孝行してあげないと」
妻や家族の話題が出て、春樹の顔は曇った。太田もその変化を感じ取ったらしく、「どうかしたんですか」と神妙な面持ちで聞いてくる。
「いいや、大したことじゃないんだが、実は、妻が資格の勉強を始めたんだ」
結婚してからというもの、妻の百合子はずっと専業主婦だった。しかしその百合子が最近、何やら参考書を買い込み、資格取得に向けて勉強を始めたのだ。こっそりのぞいてみたところ、どうやら福祉関連の資格らしい。
「へえ、それはすごいですね」
「まあそうなんだが、せっかくゆっくりできるようになるのに、わざわざ働きに出なくたっていいだろうと思ってな……」
「やめてくださいよ、熟年離婚とか」
太田は冗談めかして言ったようだが、春樹は思わずコーヒーを吹き出しそうになった。
「この前テレビで特集を見たんですけど、奥さんが急に資格の勉強を始めるのって典型的な兆候らしいですよ。旦那から独立して自分で稼ぐ準備ってことみたいです」
「いや、そんなわけないだろう。まさか百合子が離婚なんて……」
「まあ、俺みたいなバツイチが言うのもなんですけど、今のうちに手を打っといた方がいいですよ。熟年離婚されると、男は大抵路頭に迷うって言いますし……うちも奥さんに出て行かれたのは、突然だったんで」
空のトレーを持って立ち上がる部下の言葉に、春樹は何も言い返せなかった。