義母の最期

義母は2022年、94歳の時に要介護3になり、1年ほどの空き待ちを経て、特養に入所した。

ところが2023年秋、高熱が出たため緊急搬送され、重篤な状態が続く。3週間ほどで病状は安定したが、喋ることも飲み食いすることもできなくなり、中心静脈栄養(高カロリー輸液)を行うことに。

その後も一日おきに義母の面会に行っていた片岡さんだったが、母親の葬儀から約3年半後、2024年4月に義母は亡くなった。96歳だった。

連絡を受けたのは深夜2時。片岡さんは38度を超える熱があったが、病院に駆けつけた。

そのまま通夜・葬儀に参列し、全てを終え、帰宅する頃には、夕方の4時を回っていた。

夫とは別々の車で来ていたため、熱のある片岡さんは、子どもや孫たちを送ってもらおうと思い、夫の車にチャイルドシートを付け変えようとした。すると夫はこう言った。

「お前が送ってやれよ!」

「熱があると伝えてあったのに、配慮のない夫に怒りを感じました。もともと夫はワンマンな性格ですが、義母の介護については協力しようと頑張っていたとは思います。ただ、昔の子育てのとき、忙しいことを言い訳に、すべて私に任せていた癖が介護でも出て、その度に『誰の親やねん!』って喧嘩になりました。どちらにしても、夫は普通に働いていたため、ほとんど私任せでした」

葬儀のことは義母の望み通り、義妹とその息子には知らせなかった。

実母と義母を見送って

義母と同居し始めた頃は週4日で働いていた片岡さんだが、やはり体力的に厳しく、義母が来て1年後には週3日に減らしてもらい、昨年義母が高熱を出して入院してからは、病院に駆けつけなければならないことが増え、週2日に減らしていた。

「義母が高熱を出して入院した時は、夫、長女、私とで24時間付き添いました。それぞれ仕事があるため、何とか交代で回していましたが、本当に大変でした。他にも物理的に一番しんどかったのは、在宅での就寝時、尿管を尿パックに繋いでいたのに、義母が勝手に外してしまい、衣服が尿でぐしょぐしょに濡れていただけでなく、便が枕元に置いてあった時です」

片岡さんは排泄に関する介護が苦手だったため、義母が部屋からトイレまでの壁を便で汚すようになった時は、毎晩夫にアルコールシートで消毒してもらっていた。

「精神的に一番きつかったのは、義弟夫婦にお金も家もあげてしまった義母のために、『私たちが施設のお金を出すの?』という漠然とした不安といら立ちに苛まれていた時です」

元々悪かった義母の足がどんどん悪くなり、トイレの失敗が増え、認知症の症状も出てきたため、要介護3が出たのを機に特養を申し込んだが、空くのを待つ間、夫とは何度か義母の施設費用のことで揉めた。片岡さんは、「寛解中の夫のがんが再発したら」と思うと気が気でなく、自分たちが夫婦で過ごす時間が少なくなっていくことに焦りを覚えていた。

「私や義妹に対して“姑風”を吹かせていた義母は、『自分がしたことは将来自分に返ってくる』と反省している様子でしたが、本当だと思います。私は自分自身のために、義妹のようなひどいことはしたくありませんでしたし、自分が誰かの役に立っていると自信を持って思えることは、幸せなことだと思います。口に出して言われたことはありませんが、義母も夫も感謝してくれているということは伝わっていますし、義母と同居して、自分の老後を考えるきっかけになりました」

片岡さんは現在67歳。「理想の老後を過ごすにはお金が必要」ということを義母のおかげで思い知ったため、夫は65歳で定年退職しているが、定年前と同じペースで働き、片岡さんも義母を見送った後、出勤日を週3日に戻した。

「介護真っ只中で奮闘している人に『自分軸を大切に』と言っても、『自分さえ我慢すれば』となりがちですし、自分の生活を優先させると何となく後ろめたい気がしてしまいます。でも、自分優先で良いと思います。人生には後悔がつきものですが、私たちにも寿命があり、健康寿命は意外と短い。なので、残された時間で後悔のないように、時間ができたらやりたかったピアノや英会話などに本腰を入れようと思っています」

確かに「理想の老後を過ごすにはお金が必要」だが、お金でつながっていた縁は、お金がなくなれば切れてしまう。もちろん、お金もあるに越したことはない。だが、老後を迎えるまでに本当にするべきは、お金がなくても切れない縁を結び、それを強固にしておくことではないと筆者は考えるが、どうだろうか。