自分が後悔しないための決意

夕食を終えると、父を中心に晩酌が始まった。明里のなかでは、父と酒の組み合わせは家の壁に穴をあける暴力性と結びつくが、年を取って丸くなったのか、あるいは飲酒の節度をようやく覚えたのか、終始穏やかな空気だった。

とはいえ居心地が悪いことに変わりはなく、明里はすぐに庭へと避難する。しかしぼんやり庭を眺めていると、後ろの窓が開いて、また父が外に出てくる。逃げ場はないと言われているようで、胃のあたりがむかむかした。

「タバコなんて辞めたら? お兄ちゃん、長生きしてほしいって言ってたよ」

「吸ってるやつに言われたくねえな」

父は浅く笑ってタバコに火をつける。すっかり日本酒が回っているのか、頰や耳はほんのりと赤い。

「墓参り行ったんだってな。ありがとうな」

「何でお礼言われなきゃいけないのよ」

発言がいちいち勘に障る。きっと先手を打たれてしまったことも、恥ずかしくて気に食わなかった。

俺たちももう大人だし――と言った兄の声が耳元にこびりついていた。言いたいことは分かる。15年も引きずって、子どもじみているとも思う。だが、取り返しがつかないことだってある。

「そっちこそ、ありがとう。お兄ちゃんから聞いた。月命日に必ずお墓参りしてるって」

「ああ。いいんだ。他にやることもねえしな」

「あっそ」

見上げた夜空は父の吐き出す煙のせいで薄く白んでいたが、東京にいては決して見ることのできない星空が広がっていた。

「あの日、何で来なかったの?」

やがて明里はぽつりと吐き出した。別に答えてもらわなくてもいいと思った。

「康之になんか聞いたのか?」

「まぁ」

「そうか……。別に、そんな大それた話でもねえよ。ただ、駆けつけようと思ったんだが、事故渋滞にハマって間に合わなかった。そんだけだ」

父が吐き出した煙は夜の黒にとけていく。明里はそこでようやく、年老いた父がずいぶんと痩せていることに気が付いた。米作りのおかげで肌こそ日に焼けていて浅黒いが、記憶のなかの父はもっと大きくて怖い存在だったような気がする。

「嫁の死に目にも間に合わねえなんて、情けねえよなぁ。それまでにやってきたことの報いなんだって、進まねえトラックのなかで後悔したが、全部手遅れだった」

「だからお墓参りしてるの? 生きてるあいだに優しくできなかったから、その罪滅ぼしで?」

思わず語気が強くなった。酔った父が声を荒らげるのを想像したが、父は力なく笑っただけだった。

「罪滅ぼし。そうかもしれねえなぁ……。どうしたって、あいつにしちまったこと、なかったことになんてできねえのに」

ちらりと伺った父の目は赤かった。それがアルコールのせいなのか、そうじゃないのかは分からなかった。

父も明里と同じなのだと思った。まだ母が死んだときから一歩も前に進めていない。いや、父のほうはどうにかして進もうとしているのだろう。だから米作りなんて面倒な趣味を始め、頼まれてもいないのに明里の元へ送りつけてくるのだ。

どうして死ぬ前に優しくしてやらなかった――怒りが過ぎる。だがそれは父への怒りでもあり、同時に自分への戒めでもあった。母は死んだ。父は生きている。その事実は明里がどうあがいたって変わらない。ろくでもない男でも、明里の父親で、母が愛した男だった。

「米、いつもありがとうね。助かってる」

自分でも意図しなかった言葉が口を突いた。父のほうは見られなかった。

「おう、今年は今までで1番の自信作だ」

見るまでもなくうれしそうな声で父が言ったのが分かった。返事はしなかったが、今はそれで十分だと思えた。

「最近、冷えるからな。いつまでも外にいると風邪ひくぞ。さっさと中入れ」

窓から部屋に戻っていく父を見送った。口元に二本の指を添えて、深く息を吸って、吐く。

分からない。タバコなんて吸う意味も、過去を水に流したような笑顔を向けてくる気持ちも。でも、もちろん許せるわけではないけれど、歩み寄ることはできるかもしれない。これは父のためではなく、自分が後悔しないための決意だ。

息を深く吸い込んで、吐く。夜の澄んだ空気にはまだ、父のタバコのにおいが残っていた。

複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。