夫の告白
「あのさ、ちょっといい?」
夕食を終えたタイミングで宗尊が声をかけてきた。キッチンにいた麻美は食洗器から皿を取り出す手を止め、ダイニングテーブルについている宗尊の前に腰かけた。
「どうかしたの?」
「ちょっとさ、引っ越しをしたいんだけど……」
「は? なんで?」
思わず鋭い声が出た。宗尊はうつむきながら、もみあげのあたりをしきりに指でかいていた。
「ウチの親が住んでた家が葛飾にあるだろ? あそこに引っ越さないかと思って」
宗尊の発言に、麻美は目を丸くする。宗尊は早くに父を亡くし、実家には義母だけが住んでいた。その義母も3年前に病気で亡くなり、今は空き家と化している。
「だから何でよ?」
「……会社の経営がよくないんだ」
宗尊は苦しそうに言葉を吐き出す。
「コロナとかいろいろあって、なんとか乗り越えたかと思ってはいたんだけど、今度は戦争や円高もあって、ずっと危ない時期ではあったんだ。だから正直、今年や来年のボーナスもあんまり期待できない」
ここしばらく、宗尊はずっと浮かない顔をしていた。詳しく話は聞かなかったが、仕事のことで相当参っていたのだ。
「でも、そんないきなり引っ越すだなんて……」
「俺だって、好きで言ってるわけじゃないよ。でもさ、このマンションに引っ越すのだって無理をしてるんだ。家賃もかなり高いしさ」
このマンションに決めるときも、宗尊は月62万の家賃に渋い顔をしていた。それでも、麻美が説得して、ここに引っ越してきたのだ。
「でもあなただって気に入ってるでしょ! いやよ、私。それに引っ越すってなったら、あの子の小学校だってどうするのよ」
「家はちゃんと業者に頼んで、管理してあるし、軽い掃除をするだけですぐに住めるようになる。転校のことは、説明して納得してもらうしかないと思ってる」
「でも、あそこは年季もたってるし……」
「もちろん、家賃が全額浮くわけだから、今まで以上に生活が楽になる可能性がある。そうなったら、リフォームだってするよ」
宗尊は譲ろうとしなかった。それだけ会社の経営状況が芳しくないということなのかもしれないが、麻美からすればそんなことは関係なかった。
「い、嫌よ!」
麻美はヒステリックに声を荒らげていた。
「あんたの実家? そんな田舎で生活なんてできるわけないでしょ⁉」
麻美は一方的にそれだけ告げて、寝室にこもった。どうして自分がこんな目に遭わなければいけないのかと思うと涙があふれた。
●経済的に問題があっても、どこまでもタワマンに執着する麻美……。 後編【「共働きなんて無理」タワマン退去、空き家だった義実家へ…港区に固執する妻の「思わぬ誤算」】にて、詳細をお届けします。
※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。