恵太が感じた居場所のなさ
玄関で鍵の音がして、千賀子が戻ってきた。
買い物袋の擦れる音。台所に置く音。千賀子はリビングの入口で一度だけ恵太を見て、また困ったように眉を下げた。
「……夕飯、作るね」
それだけ言って火を点ける。
湯が立つ音がし、昨日と同じ薄い汁物の匂いが広がった。味噌の匂いはしない。青い匂いだけが、家の中に定着しつつある。
食卓には3人分の椀と箸が並び、湯気も立っていた。しかし、千賀子は恵太に目を向けず、大智も黙って座り、じっと湯気の向こうを見ている。箸が椀の縁に触れる小さな音だけが、会話の代わりに響く。恵太も椅子を引いて座った。
(俺の席がない)
物理的な場所の話ではない。家族と同じ席に座っていても、自分が「そこにいる」ことが無意味に感じられる。自分だけが温かい食卓の外側にいる。まるで透明人間になったみたいだ。
薄い湯気が、その感覚をいっそう確かなものにする。
「いただきます」
千賀子が小さく呟いた。恵太も同じ言葉を口にしたはずだが、その声は自分の耳にさえ届かない。辛うじて箸を持ち上げたものの、そこから手が動かない。
「冷めるよ」
「……あ、ああ」
昨晩と同じように見える汁物は、もう何の味もしない。
恵太は初めて、自分がこの家で何者であったのかを考えた。答えが見つからないまま、湯気だけが目の前で静かに揺れ続けていた。
※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。
