不器用な夫の本当の気持ち
土曜の朝。智子は目覚ましが鳴る前に目を覚ました。
寝室の天井が、白く滲んでいる。窓越しの光は柔らかく、しかし空気の冷たさが胸の奥に重たく残っていた。
ベッドの隣は空。リビングからは物音ひとつ聞こえない。
「はあ……」
パジャマのままキッチンに立ち、冷えた味噌汁を火にかけた。ガスの点火音が、ひときわ大きく耳に響く。冷蔵庫の奥にあった卵とベーコンを焼く。焼ける匂いと油の弾ける音に、少しだけ救われる気がした。
食卓に湯気が立ち上る頃、ソファから人が立ち上がった気配がした。リビングの隅から、スウェット姿の勇樹がゆっくりと顔を出した。
「……おはよう」
掠れた声に、智子は短く返す。
「おはよう」
それきり、言葉が途切れたまま、2人とも箸を取らない。
その沈黙を破ったのは、勇樹だった。立ち上がり、何も言わずに寝室の方へと消える。智子が目を伏せたまま朝食の湯気を見つめていると、しばらくして、勇樹が小さな紙袋を抱えて戻ってきた。
深い色の包装紙に、金のリボン。少しだけ袋の端が折れているのが、彼の迷いを物語っていた。
「……今日出すつもりじゃなかったんだけど……今、言わないともっと拗れそうな気がして」
ぎこちない手つきで、智子の前に差し出す。
「これは……?」
「ほんとは、来週の“いい夫婦の日”に渡すつもりだった。ちょっと、サプライズっぽくしたかったんだけど……タイミング、逃した」
「いい夫婦の日って、11月22日?」
うなずいた勇樹から智子は無言で箱を受け取り、リボンを解いた。
包装紙の下から現れたのは、濃いグレージュの革。名刺入れだった。
手に取った瞬間、ふっと息が漏れた。柔らかく指に馴染む感触。縫製も、仕切りの深さも、自分が好んで使っていた古いものと、ほとんど同じ構造だった。
「……よく、見つけたね」
「今のやつ、だいぶくたびれてたでしょ。だから智子が使ってるやつ写真に撮って……店員さんと一緒に選んだ」
勇樹は照れくさそうに笑った。智子はプレゼントに視線を落としたまま、口を開いた。
「じゃあ、あのキャバクラの割引券は?」
「駅前で配ってたやつ。断るのも面倒だったから、つい受け取って……すぐ捨てようと思ったけど、なんかその場で捨てるのも気まずくて、財布に突っ込んだまま、忘れてた。別に、他意はなかった」
言い訳じみた言葉。でも、智子にはそれが嘘ではないことが、なんとなく伝わった。
包装の下に挟まれていたカードには、勇樹の字で短いメッセージが書かれていた。句読点がやたらと多く、文末の言い回しはかしこまりすぎていて、それが逆に、彼の真面目さと不器用さを滲ませていた。
思わず笑ってしまいそうになるのを、智子は押しとどめた。
「……なんで黙ってたのよ。あんなの、見たら疑うに決まってるじゃない」
「言いそびれて……っていうか、渡すタイミング逃したら、だんだん出しにくくなって」
勇樹の肩が少しだけ落ちる。智子は、ふぅと息をついて、視線を合わせた。
「私も……ちょっと言いすぎた。怒るっていうより、不安になっちゃって。なんか、全部自分で考えなきゃいけない気がして……」
勇樹はうなずいた。
「これからは、ちゃんと話す。黙ってる方が優しいとかスマートとか、そういうの違ったなって思った」
名刺入れを閉じると、軽くカチッと音がした。その手触りが、なぜか心地よかった。
2人の間の空気が、少しだけやわらいでいくのを、智子は感じていた。湯気の消えかけた味噌汁が、まだちゃんと温かかった。
