玄関のドアが開く音がしたのは、午後9時を少し回った頃だった。
「ただいま」
小さく、そして妙に間延びした夫・勇樹の声に、智子は一瞬だけ手を止めた。洗い物の泡が指先にまとわりつき、シャツの袖を濡らしながらも振り返らなかった。
「おかえり。ごはん、電子レンジに入ってる。温めて」
「うん。ありがと」
短い沈黙のあと、勇樹の足音がリビングを横切る。
足取りが重い。いや、いつもより慎重すぎる気がした。
智子が感じた違和感
智子はグラスを洗いながら、ちらりと振り返る。ダイニングの椅子に腰掛けた彼がスマホを手にしている。だが、智子の視線に気づいたのか、画面を伏せるようにそっとテーブルに置いた。その些細なことが、妙に引っかかった。数日前からこのスマホを伏せる仕草が増えている。
「今日、遅かったね。残業だったの?」
「あ、うん……ちょっとバタバタしてて」
「珍しいね、こんなに遅くまで。今月何かあるの?」
「あー……月末、納品あるから。仕様書の修正が入ってさ」
勇樹の説明は、一応筋は通っていた。だが、それを聞いて素直に納得する智子ではない。こちらから尋ねない限り、自分のことを話さない夫に疲れていたのかもしれない。
「そっか」
その一言だけ残して、智子はキッチンに戻った。皿を拭きながら、心の奥でじわりと膨らむ違和感をかき消そうとする。考えすぎ。理屈で詰めるのはよくない。そういうの、もうやめようって決めたじゃない。でも――。
「ねえ、次の週末、何か予定ある?」
「え? あ、いや……特には」
「そろそろ衣替えしたいから、手伝ってもらおうかなと思って」
「うん、いいよ」
声の調子がわずかに上ずっていた。まるで何かを思い出し、慌ててごまかすような。
それがまた、智子の警戒心を煽った。
