父の死後、母が苦しんでいたもの

夕食は、炊きたてのご飯と浅漬け、澄んだ味噌汁に焼き魚。湯気の向こうで母は箸をそろえ、「いただきます」と静かに言った。

「ねえ」

桃子は魚の身を解しながら言った。

「あの水、どうしたの? 宗教団体のマークだよね、あれ」

こっそりスマホで検索したところ、とある新興宗教のシンボルマークと一致したのだ。

固唾を飲んで反応を窺うと、母は少し考え込むようにしてから語り始めた。

「桃子にはお父さんのこと、ちゃんと話したことなかったよね」

「うん」

「お父さんの病気が見つかった時から、病院の音が消えなくて」

「病院の音?」

「ほらあの、機械のピッ、ピッっていうのが耳の奥で鳴ってるの。家に帰ってもずっと。お父さんが亡くなってからは余計にひどくなってね、音がないのに音がするのよ」

味噌汁の湯気が揺れる。

「それで、だんだん夜眠れなくなって、朝も昼もぼんやり過ごすようになっちゃって。しんどいな、って時にチラシで近所の集まりを見つけて行って、みんなと話をして、あの水をもらって。少しだけ元気になったの」

「そう……だったんだ」

桃子は、動揺を抑えるように熱い米を口に押し込んだ。

知らなかった。父を亡くした母が、宗教に縋るほど追い詰められていたなんて。

米を噛み締めるたび、仕事で埋まったカレンダーが脳裏に浮かぶ。

年末進行、四半期の締め、休日出勤。父の葬儀の翌週、まだ忌引きが残っているのに出社した自分。

熱い湯気が目にしみる。

「どうして相談してくれなかったの?」

「だって桃子は、仕事忙しいじゃない。なかなか休みも取れないのに、心配かけるわけにはいかないわよ」

あっけらかんと笑う母に、「そっか」と返すのが精一杯だった。

湯呑みの水面に自分の眉間の皺が揺れている。

「ごちそうさま」

「お皿、そこ置いといて」

食後、母は霧吹きを布巾に一吹きし、テーブルをなでるように拭いた。「枕にも少しだけ」と言いながら、例の水を片手に寝室へやってきた母を見て、桃子は黙って頷くしかなかった。