母が心酔する「水」

冷蔵庫のドアポケットにも、ラベルのそろったボトルがずらりと並ぶ。奥の部屋を覗くと、テレビ台は白い布で覆われ、小さな花とガラスの器、鈴が置かれている。

桃子は一瞬立ち止まり、すぐに台所へ戻った。

「野菜切るね」

「お願い。胡瓜と人参。それとお味噌汁。お水はこれを使って」

母は自慢げに瓶のキャップを開け、ボウルへ注いだ。

「この水、料理に使うと味がきれいになるの」

「うん、わかった」

まな板に刃が当たる音が、いつもより澄んで聞こえる。母は霧吹きを手首に一吹きしてから、鍋に近づけた火の匂いを嗅いだ。

「最近ね、枕にも少しかけて寝るの。朝すっきりするんだって」

「へえ」

「桃子にも、ほら」

母は肩口に霧を散らした。冷たさが皮膚に張り付き、すぐ消えた。

「嫌だった?」

「大丈夫。ちょっとびっくりしただけ」

米を研ごうとして、桃子はシンク脇の計量カップにも同じラベルが貼られているのに気づく。

「お水、たくさんあるね」

「足りなくなると困るでしょ。飲むし、料理にも使うし、ちょっと身体にも。朝は霧を浴びるみたいにね」

「そっか」

言いながら、桃子は米を研ぎ始めた。水が冷たい。

「彼はどんな食べ物が好き?」

「煮物と、卵焼き」

「なら今度、レシピを教えるわ。あ、出汁もこの水でね」

「了解」

会話は軽やかだが、桃子の視線はときどき居間の方へ滑っていく。

白い布の端がわずかに揺れ、鈴の丸みが窓の光を抱えている。テーブルの角、窓辺、玄関。家の各所に置かれた瓶は、同じ静けさで立っていた。

なぜこんなに瓶が必要なのか。

このマークは何を意味しているのか。

問いはいくらでも浮かぶが、祝福の空気を崩したくなくて、口の中に留めた。

「お椀出すね」

「お願い。あ、これにも一吹き」

母は器に霧をかけ、微笑んだ。

「お守りみたいなものよ」

鍋から湯気の立つ台所で、桃子は深呼吸した。

違和感は確かにある。だが、今はもう少し幸せの余韻に浸っていたい。

やがて炊飯器の小さなランプが点き、夕食の準備が整った。