夫の本音

「もう、無理かもしれない」

自室から出てくるなり仁志がそう呟いたのは、金曜の夜中、葵がそろそろ寝ようかというタイミングだった。リビングのソファに腰を下ろす彼の声は、泣き明かしたあとのようにかすれている。

葵は一旦席を立ち、マグカップをふたつテーブルに置いた。湯気の立つハーブティーの香りが、2人を包み込む。

「なにが、無理なの?」

仁志は葵の問いには答えず、俯いたまま拳を握り締めた。

「俺さ……この前、葵にひどいこと言ったよな。創作から逃げたって。あれ、ほんとは、自分に言ってたんだと思う」

独白のようなか細い言葉に、葵は目を細めた。

「自分に?」

「うん。俺、本当はずっとマンガ家になりたかった。けど、真正面からぶつかる勇気がなくて、創作はただの趣味だって割り切ったふりをして自分を守ってたんだよ。格好悪いよな」

「仁志……」

「昔から、葵は現実をちゃんと見てた。仕事も、暮らしも、先のことも。俺はずっと……夢の続きを引きずってただけだったんだよ」

仁志の指先が震えていた。そして、そのまま声が途切れたかと思うと、肩をふるわせて泣き出した。

葵は近くに座り直し、ゆっくりと彼の背中に手を回した。

「葵、ごめん。本当に、ごめん」

仁志は何度も繰り返した。

それが心からの謝罪であることは、伝わってきた。自分の傲慢さ、焦り、そして何より、葵の存在を軽んじていたことへの悔いだった。

葵は、深呼吸をしてから口を開いた。

「仁志。私ね、ずっとあなたのこと、すごいって思ってたんだよ」

仁志が涙に濡れた顔を上げて、こちらを見た。

「だって、好きなことを続けるのって、簡単じゃないじゃん。私は途中で、描くのやめちゃったし。でもあなたは、やめなかった」

「……でも、結果的にこんなふうに……」

「ううん、違う。結果が出るとか出ないとかじゃなくて、情熱を持ち続けてる人って、それだけで尊敬に値するって、私は思う」

仁志が言葉をなくした。葵は微笑んで続ける。

「だからね、応援したかったの。出版が決まったとき、本当にうれしかった。なのに、なんでか、どんどん遠くに行っちゃったみたいで……」

「俺のせいだよ」

「うん、まあ、そうだね」

思わずふふっと笑ってしまった。

仁志も、涙に滲んだ顔で苦笑する。

「……怒ってるよな」

「そりゃまあ、少しは。でもね、もういいよ。ちゃんと戻ってきてくれるなら」

しばらく、ふたりの間に静かな時間が流れた。夜のリビングは、キッチンの時計の音と、加湿器の作動音しか聞こえない。

「ゼロから……また、始めていいかな」

「うん。一緒にね。ゼロからでも、マイナスからでも。ふたりなら大丈夫だと思う」

手を伸ばして、彼の手をそっと握った。

指先はまだ少し震えていたが、そのぬくもりは確かだった。

※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。