単行本が遂に発売
書籍が発売されたのは、梅雨入りを告げる冷たい雨の日だった。
書店の新刊コーナーに、仁志のペンネームが刻まれた背表紙が並ぶ光景は、やはり心に響くものがあった。
あれから仁志との会話は必要最低限になり、食事の時間も別々になることが増えた。
SNSでのバズで終わらず、こうして単行本を出すところまで漕ぎつけたのだから、彼の才能は本物なのかもしれない。だから、仁志が心から望むならパートナーとして彼を支えていくつもりだった。
「おめでとう。ちゃんと、カバーにも帯にも名前、載ってるよ」
葵はスマホを取り出して、仁志にメッセージを送った。
しかし、返ってきたのは「ありがとう」の一言だけ。
「仕方ないよね。忙しいんだから」
実際、発売直後は、SNSの通知が鳴り止まなかった。ファンの感想、イラスト、購入報告。編集部からも「まずまずの滑り出しです」と好意的な連絡が来ていた。
しかし、嵐のような関心は、ある時期からピタリと止んだ。発売からひと月も経つころには、編集者との打ち合わせは激減。次回作の話は立ち消えになり、持ち込み案には「今はこれ以上は難しい」と返されたという。
仁志のSNSも、以前ほどの活気はなかった。何を上げても、いいねもリツイートも控えめで、それが彼を徐々に沈黙へと追い詰めていった。
「どうしてこんなに反応が悪いんだろう」
ある夜、食後のテーブルで仁志がぽつりと漏らした。
「タイミングとか、作品の内容とか、いろんな要素があるんじゃないかな」
葵はなるべく柔らかく答えたが、仁志は顔をしかめた。
「いや、それだけじゃない。編集とも相性が悪かったんだ。あいつ、俺のことが気に入らないからって……」
完全に逆恨みだと思った。
葵は知っている。
日に日に増長した仁志が、周囲の関係者に横柄な態度を取っていたことを。ぽっと出の新人マンガ家が、人格に難ありと判断されれば、仕事が来なくなるのは当然だろう。だが、それを指摘すれば、またあの激しい夫婦喧嘩が勃発するだろうと思い、葵は黙っていた。
そうこうしているうちに、仁志の仕事は減り続け、スケジュールは真っ白になった。リビングに顔を見せなくなり、ずっと自室にこもりきり。
「ねえ、今日も…ご飯、いらないの?」
ドアの前に立って尋ねると、「適当に食べるよ」という気の抜けた声が返ってくる。
彼がもう創作をしていないことに、葵は気づいていた。週末、彼の机の上に積まれた書類にふと目をやると、次回作のプロットに、赤字で書かれた「読者に届かない」というコメントが見えた。
仁志がどれだけ落ち込んでいるか、ようやく葵は痛いほど実感した。
