バレエを始めたいの

バレエ教室の無料体験レッスンに参加した夜、里代子は勇気を出して夫の祐樹に話してみることにした。麻友に後押しされて一歩を踏み出したものの、祐樹にどう伝えればいいのか迷っていたのだ。だが、これ以上黙っているのは心苦しい。里代子は意を決して、リビングでテレビを見ている祐樹に声をかけた。

「ねえ、ちょっと話してもいい?」

祐樹はちらりと里代子を見た後、興味なさげに「なんだ?」と答えた。その声の調子に一瞬ためらったが、深呼吸をして一息に言った。

「バレエを始めたいの」

祐樹の動きがぴたりと止まった。リモコンをテーブルの上に置き、怪訝そうに眉をひそめて振り返った。

「……バレエ? この間、麻友と観に行ったっていう?」

「そう、舞台を観て感動しちゃって。実は今日、体験レッスンに行ってきたの。私、昔から身体が柔らかいし、先生にも褒められてね。すごく楽しかったの。だから、これから本格的にやってみたいと思ってて……」

一生懸命伝えたつもりだった。だが、祐樹の反応は冷たかった。

「そんなの、何のためにやるんだ? 具体的な目標でもあるのか?」

「目標って言われても、ただやってみたいって思ったから……」

里代子がそう言うと祐樹は鼻で笑った。

「ただやりたいだけ? それで月謝を払って、時間をかけて、何の意味があるんだ? 観るだけでも十分だろ?」

その言葉に、胸の奥がチクリと痛んだ。祐樹の言いたいことはわからなくもない。里代子もこれまで、家計や家族のために効率的な選択ばかりしてきた。

でも、今回は違う。ただ理屈じゃない思いが心の中にあるのだ。

「意味とか、そんなの考えたことない。でも、やってみたいって思ったの」

「そもそも誰が見たいんだ? 年寄りのバレエなんて」

里代子は思わず唇を噛みしめた。祐樹の言葉はいつも正論に近いけれど、今夜はまるで刃物のように感じられた。

「無駄なことに時間を使うんじゃないよ」

そこで祐樹は再びテレビに視線を戻した。会話は終わりだ、というように。里代子は何も言い返せず、その場を離れた。寝室の扉を閉め、静かな部屋の床に座り込んだ。
胸の奥に広がる悔しさと悲しさ。でも、同時にその中に小さな炎が宿るのを感じた。
「無駄じゃない」

祐樹のいない空間で、自分に言い聞かせるように呟いた。

これまで家族のために尽くしてきた。もちろんそれは幸せなことだったけれど、里代子の人生は里代子自身のものでもあるはずだ。それを祐樹に否定されるなんて、どうしても受け入れられない。

だから、里代子は決めた。祐樹の言葉に負けるわけにはいかない。自分の手で、バレエという新しい挑戦をつかもうと思った。