「ねえ、お母さん、どうだった?」

どこか得意げな表情で微笑むのは一人娘の麻友。劇場を出る人々のざわめきに混ざって、里代子の胸の鼓動はまだ鳴りやまない。

「すごかったわ……本当に、すごかったの」

なんと答えたらいいのだろう。ただ「感動した」と言葉にするだけでは、この心の中にあふれる熱い想いを伝えきれない気がした。

職場の先輩からチケットを融通してもらったという麻友に誘われて、気晴らしに観に来たクラシックバレエの舞台。きらびやかな衣装をまとったバレリーナたちの、力強くも優雅な動き。そのひとつひとつが光をまとっているようで、里代子は思わず目を奪われたのだ。

「なら誘ってよかった。でもお母さん、バレエとか興味あったんだっけ?」

麻友が不意に尋ねてきた。

「そうね……昔から舞台は好きだったけど、あんなに間近でバレエを観るのは初めてだったわ。私みたいな素人が感動しちゃうなんて、ちょっと恥ずかしいわね」

「別に恥ずかしくないよ。感動するのって素敵なことじゃん」

あっけらかんとした一言が、不思議なくらい心に染みた。日々の生活に追われる中で、自分の心をこんなに動かされる瞬間をいつぶりに感じただろう。家事、夫の世話、子育て――それらに没頭してきたこの数十年。自分のために何かをするなんて、考えたことすらなかった。

「お母さんさ、やってみたら? バレエ」

突然の言葉に驚き、立ち止まった。周囲の人々が行き交う中、麻友だけが真剣な表情で里代子を見つめていた。

「え? こんなおばさんが?」

冗談めかして答えたものの、麻友の目は本気だった。

「いいじゃん。お母さん、やること全部全力でやるタイプだし、絶対楽しいと思うよ。ほら、運動不足って言ってたし、ちょうどいいんじゃない?」

言葉に詰まった。

50代にもなって新しい習い事を、しかもバレエを始める自分なんてこれっぽっちも想像できなかった。だが、心のどこかが麻友の言葉を拒絶していない、したくないと思っている自分に気づいたのも確かだ。

「……そうね、ちょっとだけ、考えてみようかな」

その返事に麻友はわざと大げさに拍手のアクションをしてみせた。まるで新しい舞台の幕開けを祝福するかのように。

劇場の出口を出ると、冷たい夜風が頬を撫でた。