保険証が切れてるって
病院の白い壁と無機質な空間が、ゆかりの心を余計にざわつかせた。
受付で名前を伝えると、案内されたのは1階の処置室だった。簡易的な寝台の上には義母が横になっており、点滴を受けながら天井を見つめていた。
「お義母さん」
ゆかりが近寄って声をかけると、彼女は顔をこちらに向けたが、その表情はどこか不機嫌そうだった。
「何で来たのよ。頼んでないわよ、こんなこと」
「でも倒れたって聞いて、心配で……」
冷たい言葉に、一瞬胸が痛んだ。だが、今はそれを気にするべきではない。ゆかりは義母の傍らに座り、医師の説明を待った。
「だから大したことないって言ってるじゃないの。医者もあんたらも、いちいち大げさなんだから」
その間も義母は、不満そうにぶつぶつ文句を言っていた。
どうやら憎まれ口を叩くだけの元気はあるようだ。
ゆかりはその様子を見て呆れながらも、ほっと胸をなでおろした。
翔太も椅子に座り、小さな声で「おばあちゃん、元気そうでよかった」と呟いていた。
それからほどなくして、医師がやってきて状況を説明してくれた。
幸いなことに義母は軽い貧血による倒れ込みだったが、頭を打ったかもしれないため念のため精密検査をしたこと、年齢を考えると定期的な健康診断や生活習慣の見直しが必要だとのことだった。
「とりあえず今日は点滴が終わったら帰れますからね」
そう言って医師が去った後、ゆかりは義母に健康保険証を出すよう促した。
「お義母さん、保険証貸してください。先に受付で精算してきますから」
しかし、義母の反応はどこか鈍かった。不審に思いながらも何度か催促すると、ついに義母は観念したように口を開いた。
「保険証なんて……そんなもの、とっくに切れてるわよ」
「えっ?」
ゆかりは思わず自分の耳を疑った。
「保険証が切れてるって……もしかしてお義母さん、国民健康保険払ってないんですか?」
「……だって、今まで病院にかからなくても何とかなってたし……健康な人間が保険料を払うなんてバカらしいじゃないの」
ゆかりが恐る恐る尋ねると、義母はばつが悪そうに口ごもりながら答えた。
一般的に配偶者を亡くした専業主婦は、自分自身が被保険者となって国民健康保険に加入する必要がある。もちろん亡くなった義父の扶養に入っていた義母も例外ではない。しかし、この様子では義父の死後、手続きすら行っていなかったようだ。夫もゆかりも葬儀の準備などは適宜手伝ってはいたが、義母の健康保険のことまではとても頭が回っていなかった。さらに尋ねると、何度か督促状も来ていたようだが、知らぬ存ぜぬを決め込んでいたらしい。
「ってことは……今回の病院代、全額自己負担になるってこと……?」
頭を抱えるゆかりを尻目に義母は素知らぬ顔で視線をそらした。