「……限界かもしれない」
「父さん、そろそろ風呂に入るよ」
夕飯の片付けを終えた悟は、居間でぼんやりテレビを眺める父に声をかけた。
父はちらりとこちらを振り返ったが、すぐに視線をテレビに戻した。
「嫌だ、入らない」
「入らないって……今日は散歩に行ったから汗もかいてるだろう? 風呂でスッキリしよう。ほら父さん、立って。テレビはあとで見れるから。な?」
悟は内心ため息をつきながらも、穏やかに声をかけた。父が入浴を嫌がるのは珍しいことではない。
「風呂には入らん」
「なんで入りたくないんだ? 湯船に浸かって温まると気持ちいいよ」
普段なら、このあたりで折れて風呂場に向かう父だったが、その日は違った。
「嫌なものは嫌だ。俺は入らん」
ぶっきらぼうに言い捨てる父に、思わず眉間にしわが寄るのが分かった。
「じゃあ、上は脱がなくていいからさ、下だけでもシャワーで流そう。かぶれるのは嫌だろ?」
そう言って立ち上がり、父の肩を軽く叩いた。だが、父は振り返りもせず、黙ったまま。どうやら無視を決め込むつもりらしい。
「おい、聞いてんのかよ」
少し強い口調になるが、それでも父はかたくなだった。リモコンを握りしめたまま、動こうとしない。それでも悟は冷静さを保とうと、ゆっくりと息を吸った。
「あのな、父さん……」
すると、次の瞬間、父の口から全く予期しない言葉が飛び出してきた。
「そうだ、凧あげがしたい! 凧を作ってくれ! 河原で凧をあげよう!」
「……は? 凧あげ?」
父はリモコンを投げ捨てると、椅子を蹴り飛ばして立ち上がった。これが幼児返りというやつだろうか。まるで子供のように駄々をこね始める姿に、さすがの悟も穏やかではいられなかった。
「父さん、ふざけるのも大概にしてくれよ!」
「俺は河原へ行く! 凧をあげるまで絶対に風呂なんか入らん!」
ついにかんしゃくを起こした父が暴れだし、台所の方へ向かって歩き出した。
その様子を見た悟は思わず追いかけた。
「ちょっと待てって! どこに行くんだ!」
腕を掴もうとした瞬間、それを振り払おうとした父の拳が悟の頬に直撃した。鈍い痛みが走り、次の瞬間、それを引き金にするように堪えきれなくなった感情が爆発した。
「もういい加減にしろよ!」
父の肩を強く掴み、怒りをぶつけるように言い放った。
「仕事と介護を両立するのに俺がどれだけ苦労してるか分かってるのか! 姉さんだって、毎日必死なんだぞ! お前のために俺たちは……!」
言葉を吐き出す途中で、悟は自分の声の大きさに気づき、口をつぐんだ。
父は目を見開いたまま、その場に立ち尽くしていた。その瞳はがらんどうで上手く感情を読み取れない。しばらく沈黙が続いたあと、悟は深く息を吸った。
「今日は……もう寝てくれ……風呂には……明日入ろう」
父は反論することもなく、ややうなだれて寝室に向かっていった。その背中を見送る悟の胸中には、怒りと後悔が入り混じっていた。
独り取り残された部屋のなかで深い溜息を吐いて、台所へ向かった。蛇口をひねって冷たい水で顔を洗った。頬の痛みがまだ残っているが、それよりも胸の苦しさが大きかった。
「……限界かもしれない」
ポツリと呟いたその声が、自分自身を追い詰めるようだった。仕事、父、そして自分。何もかもが絡まり合い、光の届かない深い穴のなかへ落ちていくような気がした。
●そして父はある日徘徊の末、失踪してしまう。追いつめられる悟達。いったい父はどこに行ってしまったのか。後編【「河原で凧あげしよう」認知症が進み、息子の顔を忘れ徘徊するようになっても父が覚えていた、息子との思い出】で詳しく紹介します。
※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。