一番大事なことは

9月17日、仕事から帰宅した孝は手にビニール袋を提げている。

「あら、珍しい。何買ってきたの?」

「今日は十五夜だろ、皆で団子食べないと」

「行事を大切にするような性格だったっけ?」

「何だよ、今知ったのか? しかも今日は雲もない快晴だし、ご飯終わったら、ベランダで月見しようぜ」

うきうきした様子の孝のテンションに引っ張られるように、夕食を食べたあと家族3人でベランダに出た。折りたたみの椅子を3つだし、3人で並んで夜空を見上げた。

「すごぉい! おっきい!」

小百合は月を見て手を振っている。

「小百合、お月さまにはね、ウサギがいるんだよ」

理香子がそう教えると、小百合はケタケタと笑う。

「えー、うさぎさん?」

「そう。ウサギがね、お餅をついてるの。小百合は見えるかな?」

「見えないよーっ」

ひとしきり月を眺めたあと、時間も遅かったので理香子と小百合は、いつの間にか缶ビールを空けていた孝を残して、リビングに戻ることにした。リビングに戻るや、小百合はスケッチブックとクレヨンを手に取って、お絵描きを始めてしまう。もう寝る時間だったが、ここで止めるとぐずって面倒なので、理香子は小百合の好きにさせておくことにした。

ただ、何を描いているのかが気になって、小百合の背後からスケッチブックをのぞき込んでみる。小百合は黄色い大きな丸の中にワニやライオンを描いている。理香子は肩を落とし、小百合の横に腰を下ろした。

「小百合、これは何?」

「ワニさんとライオンさん!」

理香子は首を横に振る。ついさっき、月にはウサギがいると言ったばかりなのに。理香子書き直すように注意をしようとした。しかし口に出す前に、孝に止められた。

「何よ?」

「理香子、ちょっと」

孝に呼ばれて理香子はベランダに出る。小百合は一心不乱に絵を描いている。

「小百合のことは黙って見守っておけよ」

孝は低く小さな声で理香子に言った。しかし、それはできない相談だった。

「だって、間違ってるんだから、ちゃんと正さないと。それが親の役目でしょ?」

そこで孝はため息をついてスマホの画面を理香子に見せる。

「ほら、これ見ろよ」

それは月に関する雑学のサイトだった。月の模様はウサギが餅をついてるように見えるのが一般的だが、海外では見方が違うと書いてある。

「国が違えば、あの模様がワニやライオンに見えることだってあるんだよ。俺たちが見ているものだったり、当たり前だと思っていることがいつだって正しいってわけじゃないんだ」

理香子はまじまじと携帯の画面を見つめた。

「小百合にはあの月の模様がワニとライオンが楽しそうにしているように見えたんだ。それに正解なんてあるわけないだろ? だったら、それを受け入れてやれよ。1番大事なのは、小百合が楽しんで絵を描いてることなんだから」

孝の語気には力がこもっていた。その様子から、単に無関心なのではないとふに落ちた。孝は孝なりに、小百合のことを真剣に考え、認めているのだ。理香子は小百合に目を向けた。ガラスの向こうで、小百合は楽しそうにクレヨンを走らせている。その無我夢中な横顔に、理香子は自分がしようとしていたことの傲慢(ごうまん)さに気づかされる。

小百合のためと言いながら、一番大事な小百合の気持ちを無視してしまっていた。部屋のなかに戻り、小百合の絵をのぞき込むと、青いライオンと紫色のワニだけではなく、赤いゾウも緑色のウサギもピンクのイヌも、みんな笑顔で、月で遊んでいる。これは目で見たというよりも、小百合の願望が込められているのだろう。

「できた!」

完成した絵を両手で持って掲げた小百合の頭を、理香子はめいいっぱいなでた。

複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。