宮崎明日香(38歳)は、パート先の管理責任者の小笠原大地(36歳)の態度が急変したことに大きな違和感を覚えた。昨日までは、まるで「周囲は全部が敵だ」というくらいに、とげとげしい態度で接し、自分の業務以外には何の関心も示さずに、定時できっちり退社することに努めていたのに、今日は、朝から同僚にあいさつをしている。昨日まであったとげとげが、今日はすっかりなくなっているように感じられるのだ。いったい彼に何が起こったのか?

「カネ」をモノサシに人を測る

小笠原は、大学時代に就職活動のスタートに出遅れてしまい、希望する企業には十分な対策をできないままに面接に臨んで不合格になった苦い経験がある。現在の勤め先は、両親から就職浪人だけはしないでくれという強い希望には逆らえずに、しぶしぶ就職した企業だった。そこで、小笠原は10年以上も周囲から孤立して務めてきた。今のパートタイマーを管理する業務は、他の社員との交流がなくとも自己完結ができる業務として小笠原に割り当てられたようだ。小笠原の出身大学は、東京でも私立のトップグループに数えられる大学だった。確かに、現在の勤め先であるスーパーマーケットの他の従業員の出身大学とはレベルが少なくとも1段上の学校といえた。

明日香からみて、小笠原は、それほど優れた能力のある社員とは思えなかった。むしろ、一流大学を卒業していることを意識し過ぎていて、妙に肩に力が入り過ぎていた。既に、卒業して10年以上の歳月が過ぎているのだから、学歴格差など意識から外れていてもいいのだろうが、小笠原にとっては、学歴が一種のアイデンティティーになっているらしく、社内ではほとんど同僚らとは会話をせず、出身大学のOBが集まる勉強会に足蹴(あしげ)く通っていた。結果的に、小笠原に対しては社内の誰もが腫物を触るように接するようになっていった。

主に出身大学のOBが中心になって開催している勉強会では、参加資格はそれぞれの勉強会でさまざまだった。勉強会のテーマは経営学やプログラミング、AI基礎などビジネスリーダーとしてのスキルを磨くという目的で開催されているものが多かった。最近、小笠原が顔を出すようになった「資産形成塾」は、株式などへの投資を通じて、いかに財産を作っていくのかをテーマにしていた。小笠原は、「資産形成塾」の熱心な受講生の1人になった。毎週金曜日の20時にスタートする勉強会に、必ず出席していた。

小笠原にとって「カネ」は、自分の力を示すモノサシとして都合がよく感じられた。学歴はともかく、職歴の入り口でつまずいたという思いが消えない小笠原は、「年収」や「資産額」というカネの量によって人間の価値を計る方法が客観的だと思った。会社のブランドや業務の良しあしなどは、人それぞれの価値観による違いがあるが、「カネの量」は一目瞭然、ごまかしようのない尺度だった。それに、「資産形成塾」のメンバーがよく言葉にする「FIRE(Financial Independence, Retire Early:経済的自立、早期リタイア)」という言葉も気にいっていた。「カネの量」にこだわり過ぎると、際限なくカネを殖やすことになるが、「FIRE」を意識すれば、殖やすカネの量にも目標金額が明確になった。

ただ、「資産形成塾」で先輩の経験談等を聞いていると、「FIRE」を実現するためには、まずは仕事を頑張って年収を上げ、その上で節約に努めて毎月の積立資金を確保し続けることが重要で、しかも、達成までにかなり時間がかかりそうだった。小笠原は、もっと手っ取り早く資産を作りたかった。「テンバガー(株価10倍化)」という株式があるのであれば、そこに全財産をつぎ込んで数年で資産が10倍になって早期リタイアを実現するというような方法が望みだった。もっとも、先輩たちによると、小笠原の考えていることは「投機」であって「投資」とは異なるといわれるのだが、小笠原の本音は変えられなかった。自分の期待とは違ったが、「資産形成塾」で話し合われる世界市場のダイナミックな動きは、毎回、小笠原の興味をかき立てたので塾への出席はやめられなかった。