「すっかりご無沙汰しちゃってすみません。お二人にお話ししなければならないことがあって」と切り出したのは、あのフレディの話だった。

フレディが2年前にラブラドールレトリバーとしては長い15年の生涯を終えたこと、老衰だったこと……。衝撃だったのは、亡くなる前の1週間、劉成が国立駅の近くのホテルに泊まりこんでフレディの最期を看取っていたことだった。

「ご両親にも連絡した方がいいんじゃないかって劉成に言ったんですけど、『いや、いい』って」

「あいつ、北海道に行ってからも時々フレディの様子を見に見てたんですよ。彼女さんと一緒だったこともあったな」

何だか遠い世界のことのようで、話の内容が頭の中に落ちてこない。劉成が帰宅しないのは、獣医学部の実験や実習が忙しいからだとばかり思っていたが、違った。劉成にとっての我が家は、フレディのいる国立だったのだ。

「僕らももっとフレディに会いに行ってやれば良かったな」。主人が低い声でつぶやいた。

帰郷してしばらくすると、主人が遺言を作成すると言い出した。「還暦を過ぎたばかりなのに、早過ぎない?」と茶化すと、「こういうことは早い方がいいんだ」と語気を強めた。その表情からは、強い覚悟が感じられた。

 

国立時代から懇意にしてきた弁護士事務所に我が家の財産管理を任せ、私たちの死後は残った財産を慈善団体に死因贈与するという。

「何をバカなことを言っているの? そもそも劉成への相続を考えてこのマンションに越してきたんじゃなかったの?」

しかし、主人の決意は固く、9月に私たちは自分たちの意向を記した公正証書遺言を作成した。正本のコピーを釧路に送ったが、劉成からは何の反応もない。

窓辺に立つと、サッシがかたかた音を立てた。早いもので、今年も木枯らしの季節がやって来たようだ。

「風立ちぬ 、いざ生きめやも」。何十年も前、女学生時代に愛読した小説の中の一節がふと口をついた。

劉成やフレディと過ごした日々にはもう戻れない。あとどれほどの寿命が残されているのか知らないが、私たちは、この摩天楼で生きていかなければならない。

※この連載はフィクションです。実在の人物や団体とは関係ありません。