久しぶりの乾杯の音
ミルクを飲む音が、寝室の静けさの中に溶けていく。薄手のガーゼケットに包まれた赤ん坊が、早苗の腕の中でようやく食事を終えた。
「飲んだ?」
空の哺乳瓶を受け取った大地が声をひそめて尋ねる。
「うん、このまま寝そう……」
早苗はうなずきながら、そっと立ち上がり、そばのベビーベッドにそっと赤ん坊を寝かせた。小さな指がきゅっと握り返す気配に胸が温かくなる。
リビングに戻ると、洗い物を終えた大地が冷蔵庫の前でこちらを振り返った。
「じゃあ……準備、いい?」
「うん。ようやく、ね」
テーブルの上には、久しぶりに見た缶が2本並んでいた。大地が選んで買ってきた、アルコール度数控えめのビール。いつぶりだろう、と思いながら、早苗は慎重にプルタブを引いた。
「ぷしゅっ」
缶の音が、小さく、しかしはっきりと部屋に響いた。かつては何気ない日常の一部だったこの音が、今夜は少し特別に感じられる。
「おかえり、ってことで」
「うん、おつかれさま、でもあるね」
グラスに注いだ泡がふわりと立ち、2人の手元をやわらかく照らした。
カチンと軽くぶつけた乾杯の音が、静かな部屋に優しく響く。
口に含んだ瞬間、微かな苦味と炭酸の刺激が広がった。懐かしいようで、どこか新鮮だった。喉を通り抜けていく感覚に、早苗は目を細めた。
「……やっぱり、これだね」
「うん、やっぱり」
笑い合いながら、2人は静かにグラスを傾けた。
妊娠が判明してから、早苗は身体を守りながら、日々の不安や孤独と折り合いをつけてきた。大地もそのそばで、飲まない生活を選び、思いやりの形を手探りで学んできた。
「幸せだな……」
「ね。私ちょっと泣きそう」
2人は肩を並べてソファーに深くもたれかかった。カーテンの隙間からのぞく空には、無数の星がまたたいていた。
※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。
