<前編のあらすじ>
仕事終わりの晩酌が何よりの楽しみだった早苗と大地の夫婦。冷蔵庫から缶を選び合い、グラスを傾けながら他愛もない話をする時間が、2人の絆を深めていた。
その後、妊娠したことがわかり、喜び合う夫婦。早苗は禁酒となったのに対し、大地は変わらず晩酌や飲み会を続け、早苗だけが我慢を強いられる日々が続いた。
「私ばっかり我慢して」と訴える早苗だったが、言葉は空回りし、自己嫌悪に陥る。荷物をまとめ、「実家に行く」と告げて家を出た早苗は何とも言えない孤独感にさいなまれていた。
●前編【「家でも飲むつもり?」妊娠生活の中で夫婦の温度差が生んだすれ違い…変わらない夫への苛立ち】
両親の優しさに包まれた夜
実家の夜は、静かだった。
居間には母が置いた加湿器の蒸気がふわふわと漂い、壁際の時計がゆっくりと秒を刻む音がかすかに聞こえていた。こたつの中に足を入れ、懐かしい温度に安心しながら、早苗は大きく息を吐いた。
「やっぱ実家はいいなあ」
両親は気をつかって多くを聞いてこなかった。ただ「好きなだけいればいいからね」と言って、ふかふかの毛布を出してくれた。言葉少なな優しさが、どこか泣きそうになるほど沁みた。
グラスの中のほうじ茶は、やけどするほど熱かった。それでも、冷えた指先にはちょうどよかった。
「お風呂は? ちょっと時間かかるけど、沸かそうか」
「向こうで入ってきたからいい。ありがと」
「そう。じゃあ、お母さんたち先に寝るね」
母が去った部屋の中は、時計の音と冷蔵庫の小さなうなり声だけが響いている。
夫婦で過ごす夜とは、こんなにも違うのだと、早苗は思った。缶を開ける音も、氷の当たる音も、ふと漏れる笑い声もない。冷蔵庫の中に缶ビールが並んでいない光景が、逆にどこか異質に感じた。いつの間にか、自分の中でそれが生活の一部になっていたのだと、改めて気づかされる。
「大地、まだ飲んでるのかな」
一緒にいる時間の中で、晩酌という習慣が、ただの嗜好ではなく、心の結び目のようなものになっていた。缶を選び合う時間や、ひと口目の感想を言い合うことが、それがどれほど大切だったか。
失ってみて、ようやくはっきりとわかる。
苛立ちの正体は、ただ飲めないことへの不満ではなかった。楽しさを共有できなくなった寂しさと、自分だけが取り残されていくような、薄い不公平感だった。
大地は悪気なく日常を続けている。でも、その「何も変わらない」ことが、早苗にとっては一番つらかった。
(私は、置いていかれたように感じていたんだ)
そう思った瞬間、胸の奥がすうっとほどけていく。怒って、責めて、ぶつけて、それでもうまく伝えられなかった感情の輪郭が、ようやく言葉になり始める。
「……ちょっとすっきりしたかも」
早苗はこたつの電源を切って立ち上がり、母が用意してくれた寝床へと潜り込んだ。
