会議室で発覚した重大ミス
朝一番の会議室で、プリントアウトされた資料の束がテーブルに並べられていた。そこにある数字の列を見つめながら、春貴は喉の奥が乾くのを感じていた。
「この確認、誰がやったんだ?」
部長の声は静かだったが、空気は凍りついていた。
決済前のデータに1カ所だけ紛れ込んでいた誤った数値。そのまま通ってしまった契約は、すでに先方と締結済みだ。差額は、笑えない桁になっている。
「……私です」
春貴が名乗り出ると、視線が一斉に自分に集まる。部長は大きく息を吐き、額を押さえた。
「どうするかはこれから詰める。ただ、お前のミスで会社に損失が出たことは事実だ」
わかっています、と答えながら、頭のどこかで別の声が響いていた。
仕事ができる営業、という評価はこうも簡単に剥がれるのか。
会議が終わると同時に、対応に追われる日々が始まった。先方への説明資料、社内への報告書、関係部署との調整。椅子に腰を下ろしたまま、時間だけが勢いよく過ぎていく。昼食はコンビニのおにぎりを片手でかじり、夜はエナジードリンクで胃をごまかした。
「大丈夫だ……」
数字で取り返せばいい。今までもそうしてきた。春貴は自分に言い聞かせた。
だが今回ばかりは、どれだけ契約を取っても埋まらない穴のような気がしてならなかった。ミスの内容も、損失の大きさも、いつもの「営業の波」で片づけられる範疇を超えている。
気づけば、終電近くまでオフィスに残るのが当たり前になっていた。誰もいないフロアでコピー機の音だけがやけに大きく響く。モニターの白い光に照らされながら、春貴は画面に向かって数字を打ち込み続けた。
自分には仕事しかない。若いころにそう決めた。
「私は大丈夫だから。春貴は春貴のやりたいことをやりなさい」
その言葉に甘え、就職してからはほとんど実家に帰らなかった。そのせいで母が体調を崩して入院していたことさえ知らなかった。息子に心配かけまいと、彼女は自分の病状を黙っていたのだ。病院からの電話を何度も無視し、ようやくかけ直したときには母はもう旅立ったあとだった。
あのころの自分に、今の姿を見せたらどう思うだろう。金を稼ぐ。それだけのために走り続けてきた。しかし、その結果がこれなのか。
ふと、スマホが震えた。画面には「大沢愛美」の名前が表示される。
「今週末って、予定通りで大丈夫そうですか?」
シンプルなメッセージに、しばらく指が動かなかった。
あれから彼女とは、スケジュールの隙間を見つけては何度か食事をした。今回の約束は、前回会ったときに決めていた。だが、今の状況でゆっくり食事を楽しむ余裕などない。それでも、キャンセルの文言を打ち込もうとすると、何かがつかえてしまう。
仕事を理由に断るのは、いつものことだ。今まで交際した恋人たちにも、そうしてきた。そのたびに投げかけられた恨み言を思い出し、春貴は小さく舌打ちをする。
結局、「少しバタバタしてますが、大丈夫です」とだけ返した。送信ボタンを押した指先に、妙な重さが残る。
モニターの光に照らされた自分の手を眺めながら、春貴は思う。もし自分から、仕事という看板が剥がれたら、何者として残るのだろうか。
●春貴はマッチングアプリで出会った愛美と何度か会うようになった。しかし仕事一筋で生きてきた春貴は会社に損失を出してしまい、激しく落ち込んでしまうのだった…… 後編【エリート課長が深夜に号泣「うまいだけだから…」仕事優先の孤独な人生を救った、一杯の“大根の葉ごはん”】にて、詳細をお伝えします。
※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。
