春貴は、朝の満員電車の揺れに身を預けながら、スマホの画面を親指でなぞっていた。マッチングアプリのアイコンをタップすると、見慣れた起動画面が立ち上がる。
30代後半に突入し、「自然に彼女ができる年齢は、とっくに過ぎたのかもしれない」と苦笑いしてこのアプリを入れた夜のことを思い出す。あれから何人かとやり取りをし、実際に会った相手もいたが、どの人とも長続きせず、気づけばみんなトークの下のほうへ沈んでいった。
会社の最寄駅で電車を降りると、スーツ姿の人波に紛れてオフィス街を歩く。フロアに入ると、向かいの第二営業課の課長がこちらに手を振った。自分よりいくらか若いが、肩書きは同じ。
「深谷課長、また契約取ったそうですね。うちの連中がざわついてましたよ」
「たまたまだよ。そっちの数字も悪くないって聞いたけど」
軽く笑い合いながら、自分の席に資料を置く。
数字で自分を証明する毎日
平社員のころから、契約件数だけはいつも掲示板の上のほうに名前が載っていた。その延長線上にある肩書きだとわかっていても、評価の言葉は嫌いではなかった。
午前中の会議では、部下が作った見積書を数枚めくり、赤ペンで2、3カ所に印を入れる。
「ここだけ直して」
「了解です」
短く会話をしたあと、今度は自分が担当する法人客向けの資料に目を落とした。
課長とはいえ、まだ現場から完全には離れられない。1本契約が決まるたびに、ボーナスがどれくらい動くかも感覚でわかるようになっている。家賃も、車の維持費も、カードの支払いも、その数字にぶら下がっている。稼いでいる実感だけが、自分の輪郭をはっきりさせてくれる気がした。
「仕事はできるけど、プライベートは謎ですよね」
休憩スペースで誰かがそう言っていたのを、ふとした拍子に思い出す。否定しようとしても、反論に使えるようなエピソードが頭に浮かばない。
残業を終えてビルを出るころには、空気はすっかり夜の温度になっていた。電車に乗る前にスマホを取り出し、今度はデリバリーアプリを開く。サンドウィッチ専門店の画面をタップし、迷わずセットメニューを注文した。配達料込みでそこそこの値段になるのはわかっているが、いちいち計算はしない。
オートロックを解除し、部屋に入ると、ほどなくしてチャイムが鳴った。受け取った紙袋をテーブルに置き、包みを開けた途端、小麦とソースの匂いがふわりと広がる。その匂いに、余った給食のパンを持ち帰って晩ご飯に回していた小学生のころの台所の情景が、一瞬だけ重なった。
「ちっ……」
食べ終えた容器を片付け、最低限の食器だけ流しに運ぶ。テーブルの上のスマホを手に取り、マッチングアプリを開くと、トーク一覧にはいくつかの名前が並んでいた。
既読のまま返事が止まった相手もいれば、一度だけ飲みに行って、そのまま連絡が途切れた相手もいる。その中の、新規でいいねを押し合っただけのアカウントのアイコンに目が留まった。
「manami」。ごく普通のOLで、今のところ特別な印象はなかった。
「一応返信しておくか」
短いメッセージを送信し、春貴はスマホを手放し、部屋の灯りを落とした。画面の小さな光だけが、寝室をぼんやりと照らしていた。
