離婚後の静かな日々

離婚届を出したのは、冬の終わりだった。役所の窓口で書類を提出したとき、不思議なくらい落ち着いていた。

しばらくのあいだ美咲の家に泊めてもらったあと、陽子は市内の小さなアパートに引っ越した。古いが手入れの行き届いた建物で、1人暮らしにはちょうどいい広さだった。

毎日が、静かだった。誰にも食事の味を咎められず、誰にも言葉を遮られず、好きな時間に眠って、好きな音楽を流せる。そんな当たり前が、陽子にとっては新鮮だった。

とはいえ、ぽっかりと空いた時間にふと不安が押し寄せてくることもある。

たとえば、夕方の光が差し込む台所。何気なく振り返った先に、誰もいない空間。その孤独に、一瞬心が沈みかける。

ふと思い出すのは、美咲が引っ越しの手伝いのときに言った言葉だった。

「お母さん、料理の写真とかSNSに上げてみたら? 人気出るかもよ」

「そんなの、誰が見るのよ……」

そのときは笑って流した。

だがその夜、なんとなく携帯を手に取り、パートの娘が使っているというアプリを検索して、インストールした。

翌日、陽子は思い切って1枚、写真を撮った。自分のために作った、卵焼きと菜の花のおひたしの朝食。光がちょうどよく当たった角度を見つけるまで何度もシャッターを押し直した。

文章は短く、「春の味」とだけ書いた。数時間後、「おいしそう」「懐かしい味がしそう」と、見知らぬ誰かからの反応がいくつか届いた。

「すごい……」

携帯の画面を見つめながら、陽子は小さく息を吐き、初めてほっと笑った。

——自分の料理を誰かに褒めてもらえる。それだけで、こんなに心が軽くなるなんて。

フォロワーは数えるほどしかいないが、それで十分だった。誰かが「いいね」を押してくれるたびに、陽子の中で少しずつ「私はここにいる」という感覚が芽を出していった。

春の風が、レースのカーテンを揺らしている。窓の外では、桜のつぼみがもうすぐ開こうとしていた。

※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。