新人・梨乃の言い分
梨乃は一拍置いてから、静かに口を開いた。
「いえ、終わっていないことは分かっていました。でも、定時になったので」
「それはわかるけど、少しでも残って終わらせようという気はなかった? あなたの代わりに三宅くんと中村くんが残ってやってくれたんだよ?」
「それは申し訳ないです……でも、求人票には、“残業ほぼなし”と明記されていました。私はそれを前提に転職したんです」
会議室の空気が、すっと冷えるような感覚。友梨佳は視線を外し、テーブルの上の資料に目を落とした。
頭では理解できる。誰だって早く帰りたい。
だが、納期は待ってくれないのだ。
「でもさ……任された仕事って、やりきる責任があると思わない? 特に、誰かがその先を待ってる業務なら」
「その通りだと思います。でも、残業が前提になる働き方は、避けたいと思っています。前職で、ずっと無理をしてました。そういう働き方から抜け出すために、ここを選んだんです。それなのに……聞いていた話と違うなら、正直ちょっと、厳しいですね」
「厳しいって?」
「働き続けるのが、厳しいかなってことです」
沈黙が落ちた。
その言葉の重みを受け止めながら、友梨佳はすぐに何も言えなかった。代わりに浮かんできたのは、かつて人事部にいた頃の記憶だった。求人原稿を練り、応募を待ち、面接を重ね、ようやく迎えた入社日。だが、その新人が数週間で辞めていった時の、あの空虚な感覚。現場の疲弊と、またゼロから始まる採用の重さ。採用ひとつが、どれだけの人と時間を消費するかを、骨身に染みて知っていた。
――このまま辞めさせたくない。
「山内さん……話してくれてありがとう。少し、考える時間をもらえる?」
ようやくそう言った時、梨乃は一度だけうなずいた。
会議室の窓から朝の光が射していた。友梨佳は資料をめくるふりをしながら、心の中の迷いを静かに飲み込んでいた。
