湯呑の底を布巾で拭き、棚に戻したときだった。スマートフォンがカウンターの上で震えた。
画面には見慣れない市外局番。恵は手を止め、その番号をしばらく見つめてから応答した。相手は、とある総合病院を名乗った。
「佐藤静雄さんのご家族の方でいらっしゃいますか?」
その名を耳にした瞬間、背筋にひやりとしたものが走った。
もう何十年も、会っていない。母の葬儀にも現れなかった人間の名前を、今さら聞くことになるとは思っていなかった。
「……はい、佐藤静雄の娘です」
名乗った声がわずかに揺れた。相手は気にとめた様子もなく、今朝、自宅で倒れて病院へ搬送されたこと、意識が戻らず危篤状態であることを淡々と告げた。
「……わかりました。今日中にうかがいます」
父の危篤に複雑な思いの恵
通話を切って画面が暗くなっても、恵はしばらくその場に立ち尽くした。
耳の奥にはまだ、父の名前の響きが残っていた。恵の異変を感じ取ったのか、庭に出ていた夫が掃き出し窓を開けて声をかける。
「どうした?」
「静雄が危篤だって。さっき病院から……」
夫は軍手を外し、そのまま靴を脱いで入ってきた。
「私、行ってくるね。留守番お願い」
「……1人で大丈夫か? 一緒に行こうか?」
「平気。すぐ戻れるかはわからないけど、大丈夫」
「わかった。気をつけて」
エプロンを外しながら、恵は軽く頷いた。
夫に静雄のことを口にする機会は滅多になかった。そもそも話す必要もないと思っていた。
両親が離婚したのは小学6年の頃。原因は静雄が作った借金だ。彼は家を出たきり、二度と恵たちの前に顔を出さなかった。
「……いってきます」玄関を出ると、乾いた風が頬をなでた。

 
           
          
 
       
         
       
      
 
     
             
             
             
             
             
       
         
         
         
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