父の部屋に残された宝物

部屋に入った瞬間、恵は一度息を止めた。生活の途中で時間が止まったような匂い。ちゃぶ台の上の湯呑、新聞。座椅子に古い上着。開けっぱなしの押し入れ。どこもかしこも、色が褪せていた。

「はあ……」

恵は黙って室内を見回した。息を吐くたび、空気がわずかに揺れる。雑然とした部屋の中で、ふと、視線が止まった。テレビの脇、ローボードの一角。そこだけが、まるで別の時間に属しているように整っていた。薄い布がかけられ、その上にVHSデッキが置かれている。機体の表面には指紋ひとつなく、コードも丁寧に束ねられていた。隣には、小さなプラスチックケース。中に数本のテープが、背を揃えて立っている。

「何これ……」

恵は近づき、ケースのふたをそっと開けた。するとテープのラベルには、丁寧な字で「運動会」「海」「母の台所」と書かれている。雑然とした空間の中で、小さな機械とテープだけは、まるで宝物のように扱われていた。

恵は膝を折り、ケースの中のテープを指先でなぞった。硬質のプラスチックの手触りが、ひどく冷たかった。

「……何を、残してたんだろ」

声に出すと、部屋の静けさがそれを飲み込んだ。

片づけを始める気にはなれなかった。

散乱した新聞を避けて座り、恵は適当に1本のテープを手に取る。「運動会」と書かれたものだ。ケースから抜き取り、デッキに差し込む。テープが巻き取られる音がして、静雄が何度も繰り返し押したであろうボタンの感触が、指先を通して伝わる。プレイボタンを押すと軽い駆動音ののち、画面が点き、ノイズが滲んだ。時間が、ほんのわずかに巻き戻ったように感じられた。数秒の黒画面ののち、再生が始まった。

グラウンドの白線、色とりどりのテント。砂埃が舞う。カメラはゆっくりパンして、観客席を横切り、やがて徒競走のスタートラインへと寄っていく。その中に、小さな自分がいた。髪を2つに結び、赤いハチマキ。緊張した面持ちで、前を見ている。画面が揺れ、ズームが合わずに顔がぼやけた。ズームが戻ると、また全体が見えた。

「がんばれー、恵!」

音声が割れた。母の声だった。続いて、もうひとつ、低くくぐもった男の声が重なる。

「よし、そのまま、いけ、いけっ!」

静雄の声だった。叫ぶような声援。意外なほど明るく、笑っていた。

カメラがぶれて空を映す。そのぶれの最中にも、笑い声が重なる。

本当に楽しそうだった。