過去をフラッシュバックさせる子猫の異変
雨は夜半から強くなった。風も混じり、窓の桟がたびたび鳴った。灯を落とした居間で、健司は椅子に座り、うとうとしていた。すると突然、低く短い鳴き声がした。
いつも静かなびわらしくない声だった。続けて、もう一度、細くかすれるような声。健司は身を起こし、段ボールに目をやった。
「どうした?」
毛布の上に丸くなった子猫たちの中で、1匹だけが、少し離れた場所に横たわっている。びわは鼻先で何度もその小さな体をつついていたが、反応はほとんどなかった。健司はそっと手を差し入れ、他の子猫に触れぬよう気をつけながら、その1匹だけを布ごと持ち上げた。手の中に、ほとんど重さがなかった。
やかんに水を入れ、火をつけた。金属が鳴る音。鍋に湯を張り、濡れたタオルを固く絞る。母猫がこちらを見ていた。目が合っても、びわは鳴かなかった。
「ちょっと待ってろ」
子猫を胸に抱くようにして、健司は上着を開いた。心臓の鼓動が伝わるように、タオル越しにそっと体をあてる。浅く、小さな呼吸。まぶたがわずかに震えた気がした。
(行くべきか……病院へ)
だが、この時間、この雨。杖をついて子猫を抱えて、あの坂道を越えるのは現実的ではなかった。それに、連れて行ったところで、何ができるのか。
かつての記憶が、答えのようにフラッシュバックする。
冷たい蛍光灯の光が、低い天井をぼんやり照らしていた。窓のない、暗い部屋。白布に包まれた小さな身体が、静かに横たわっていた。片方の靴が脇に置かれたまま。お気に入りの髪留めは原形をとどめていなかった。
娘が交通事故で死んだのは、9歳の時。近所の友達と公園で遊んだ帰り道、信号無視の車にはねられたのだ。ほぼ即死だったという。病院で娘と対峙しても、健司は声を発さなかった。ただ、目の前に冷たくなった娘がいて、もう二度と帰ってこないという現実だけが、身体に染みていった。
妻はそれから目に見えて憔悴していった。泣くのでもなく、怒るのでもなく、ひたすら無気力な時間が続いた。夜中の吐息にまじる、微かな嗚咽の気配。
健司は、隣にいて、何一つ取り戻せなかった。娘を失い、妻を失い、怒りだけが、健司の中に残った。
この理不尽に、世界に、自分自身に。
しゅう、と湯が沸く音がした。
「大丈夫だ」
びわが顔を上げた。
「……大丈夫だ」
繰り返す声に、びわはまばたきをひとつして、また子猫の方へ鼻先を寄せた。
窓の外、雨の音がやわらいでいった。風も落ち着き、深い時間が流れる。明け方、健司の胸の中で、小さく「みぃ」と鳴く音がした。弱々しいが、確かに生きている証だった。
