「最近、バイト多すぎない?」学業そっちのけの娘につのるいら立ち
夜の台所に立ち、ココアを鍋で軽くいりながら洋子は耳を澄ませた。階段の上から時折、物音がしている。
浪人生活を終えて、この春から大学生になった娘の夏美は、最近やっと新しい生活に慣れ始めたようだ。
ミルクに砂糖を加え、小さな鍋を木べらでゆっくり回す。テスト前で寝不足らしい。せめて心が休まるものを出してやりたい。
「夏美、休憩にしない? ココアいれたんだけど」ドアを軽くノックして声をかけると、少し間を置いて返事が返ってきた。
「うん、行く」リビングに姿を現した夏美は、Tシャツにハーフパンツ姿。髪は後ろで無造作に結ばれ、黒縁の眼鏡をかけている。ココアをカップに注ぎ、テーブルに置いたその時、彼女が何気なく言った。
「あのさあ、お母さん。テスト期間が終わったら私、脱毛に行きたいなって思ってるんだよね」
洋子は手を止めた。意外すぎる言葉に、思わず笑ってしまう。「なに浮かれたこと言ってるの。そんなの必要ないでしょ。お金だってかかるんだし」
「別に、浮かれてるわけじゃないよ」夏美の声が少しだけ低くなる。だが、洋子は軽く肩をすくめた。「成人したとはいえまだ学生なんだから。ぜいたくしてる暇はないのよ」
夏美はそれ以上何も言わなかった。黙ってココアを口に運び、視線をカップの中に落とした。その沈黙に、洋子は軽い後味の悪さを覚えながらも、深くは考えなかった。言い合いになる前に話を終わらせたつもりだった。
けれどその日を境に、夏美のアルバイトの日数が増えていった。大学の講義が終わると、そのまま駅前のカフェで夜まで働いて帰ってくる。
「最近ちょっとバイト多すぎない?」
「大丈夫だよ、勉強にもちゃんと時間取ってるし」
心配しても軽くかわされる。洋子は心の奥でざらりとした違和感を覚えた。浪人中は、勉強に集中させるためにバイトはさせていなかった。今も「学業第一」が洋子の信条だ。バイトは最小限にしてほしいのに、なぜこんなにシフトを入れるのだろう。
「バイトはほどほどにして、もっと自分の将来に必要なことに時間を使いなさいよ」そう言うと、夏美は一瞬、洋子を見つめた。
「将来のためにやってるんだよ」
その返事の真意を、洋子は理解できなかった。
やがて、洋子たちのあいだには小さな口論が増えていった。「そんなに遅くまで働いてたら、体壊すわよ」「大丈夫だってば」「大丈夫じゃなかったらどうするの」「お母さん、ちょっと干渉しすぎだよ」言葉の応酬は短く、それでいて長く尾を引いた。
洋子はただ娘を守りたいだけなのに、その気持ちがうまく届かない。彼女は、洋子の見えないところで少しずつ変わっていっている。何を考えているのか、何を目指しているのか――知りたいのに、聞けばまた言い争いになるかもしれない。
母娘の距離感が、じわじわと広がり始めていた。