いつものように公営住宅前の駐車場に止めた車を出ると、ムシムシとした空気とセミの鳴き声が聞こえてくる。まだ10時だというのに気温は30度近くなっていて本格的に夏が始まったことを思い知らされた。
百合子はすでに汗ばみ始めている体の不愉快さを感じながら階段を上がり、3階の角部屋の扉を合鍵で開いた。
「おかーさーん、入るよー」
「はいはい、どうぞ~」
リビングから声がして百合子は廊下を歩いて向かった。母の君枝は、お気に入りの座椅子に座ってテレビを見ていた。目の前のちゃぶ台には空になった茶碗などが置かれている。
今年81歳になる上にこの猛暑なので百合子の心配は尽きないが、どうやら母は元気らしかった。
「どう? 体調は?」
「元気だよ。百合子はどうなの?」
「私も全然元気だから」
百合子がそう答えると君枝はニッコリと微笑む。
「そうか。それは良かったね」
どれだけ歳を取ってもこの顔だけは昔と変わらない。この笑顔にどれだけ救われたかと百合子は思いを馳せた。
百合子は父の顔を知らない。父について聞いたことはあったが、君枝は分からないと言って教えてはくれなかった。多少気になりはしたが、詮索しようとは思わなかった。百合子にとって、君枝がいてくれたら十分だった。
決して裕福な暮らしではなかった。それでも不幸だと感じたことはない。いつでも君枝が元気に笑顔で接してくれていたからだ。
百合子にとって、君枝はかけがえのない存在だった。
結婚してからも、車で通える範囲で暮らし、介護が必要になった今もこうして数日に1度は顔を出して様子を見ている。とはいえ、この生活をいつまで続けることができるかは定かではない。
いわゆる通い介護なので負担も大きかったし、そもそも母の生活のすべてをサポートできているわけではない。おまけに、ここ最近は別の問題も生じ始めていた。