<前編のあらすじ>
緑子は不妊治療を6年続け、30代最後の年に妊娠を果たした。しかし、生まれてくるはずの我が子は去って行ってしまった。3年前のことだった。
以来、緑子はふさぎがちになってしまう。夫の祐樹は最初こそ労わるように緑子に頻繁に声をかけていたのだが、次第に二人の会話はまばらになり、いまでは夫婦というよりはただの同居人のような距離感になってしまった。
そんな折、緑子は友人の一人、真理から、気晴らしに行こうと誘われる。二人が向かったのは競馬場だった。初めての競馬場。買い方もよくわからず、緑子は適当に馬券を買うのだが、賭けた馬は1着になり、しかも大当たりをしてしまう。
予想もしなかった幸運に喜ぶ緑子だったが、次第に競馬にのめり込むようになっていく。
前編:生まれるはずの我が子を失いふさぎこみ…失意の底にある40代女性がはまった「ギャンブルの罠」
競馬が辞められず、ついには借金まで
緑子の手元から、味噌汁の湯気がふわりと立ちのぼる。冷蔵庫の残りもので作った簡単な献立。それでも、祐樹と食卓を囲む夜は、以前より少し増えた。
「……最近、競馬ばっかり行ってるみたいだけど」
夕食の途中、祐樹が不意に箸を止めた。口調はあくまで穏やかだったが、目だけは真っ直ぐ緑子を見ている。
「あ、うん……ちょっと気晴らしにね」
「気晴らしはいいと思うけど……でも、それで貯金を減らすのはどうなの? あれって、将来のためのものでしょう? 緑子がそう言ってたじゃない」
「そんなの……」
一瞬、言葉が詰まった。確かに緑子がそう言ったのだ。だがそれは「いつか子どもができた時のために」と、堅実に積み立ててきた貯金だ。もうその「いつか」はやってこない。堅実にお金を貯めておく意味なんて、もうどこにもなかった。
「分かった……気をつける」
そう答えたものの、緑子は、競馬を止められなかった。
馬券を買うたびに、胸の奥がじんわりと熱くなる。あの熱を、緑子はもう手放せなかった。
そして負けが続いたある日、緑子はついに消費者金融の自動ドアをくぐった。カウンター越しの笑顔と、静かな手続き。思っていたよりも、ずっと簡単だった。
「これで、次のレースに間に合う」
そうやって向かった競馬場の芝生はいつもより青く見えた。
レースが始まる直前のざわめき、風を切る馬の蹄音。興奮と緊張が入り混じる中、緑子は手元の馬券を握りしめていた。
結果は、外れ。
でも、また次がある。
まだ取り返せる。
心の中で繰り返した。
頭では分かっている。
こんなことを続けてはいけないと。
でも、競馬だけが、空っぽの緑子を満たしてくれる気がした。