夜の帳が下り、街中が静けさに包まれる頃、緑子は1人、ベッドの片側に身を沈めた。壁の時計が針を進める音が、耳障りなほど大きく聞こえる。ふとスマホの画面が光った。眩しさに顔をしかめながら見ると、メッセージが1件届いていた。夫の祐樹からだ。
「今日は会社に泊まる」
たったそれだけ。絵文字も何もない、短くて、乾いた文面だった。
こちらも「了解」とだけ打ち込んで、スマホの明かりを消し、緑子は天井を見上げた。こうして暗闇の中にいると、嫌でも記憶がよみがえる。
3年前の春、結婚してからずっと待ち望んでいた小さな命が、緑子の中から去っていった日。
不妊治療は長い戦いだった。月ごとの期待と落胆、注射や薬の副作用。
治療を始めて6年、30代最後の年に妊娠したときは、緑子も祐樹も最後のチャンスだと思っていた。だからこそ、失った痛みは筆舌に尽くしがたい。思い返すだけで、今も胸がじくじくと痛む。あの頃の祐樹は、不器用ながらも緑子を支えようとしてくれていた。
「子どもがいなくても幸せな夫婦はいくらでもいるよ」
しかし、緑子の中にぽっかり空いた穴は、なかなか埋まらなかった。
それどころか何をしても虚しいだけで、日に日に感情が失われていくようだった。
主婦である以上家事はするが、それは単なる義務であって、どこか遠い場所で起きていることのよう。食卓に並ぶ料理も、テレビから流れるニュースも、まるで他人事だった。
そして、無気力な緑子に呼応するように祐樹も変わってしまった。
最初は緑子の心痛を察してあれこれ気を遣っていたが、次第に彼自身も沈黙を選ぶようになった。会話は減り、ほとんど視線も交わさない。今では彼の家に寄り付かなくなり、気づけば夫婦というより、ただの同居人のようだった。
夫婦とはなんなのだろう、と考える夜が増えた。体のぬくもりを感じることも、他愛ない話で笑い合うこともなくなった今、緑子たちの間にあるものは何だろう。
寝返りを打って空いたスペースに手を伸ばすと、指先に冷たいシーツが触れる。やがて現実から逃げるように、緑子は微睡みの中に沈んでいった。