漫画が大バズり
「ねえ、これ見てよ」
夕飯の後片づけをしていた葵に、仁志が声をかけてきた。振り返ると、スマホを片手に、口元を綻ばせている彼の姿があった。
「どうかしたの?」
葵は食器を拭く手を止めて仁志に近づく。差し出された画面には、仁志が投稿した漫画が映っていた。コメント欄は絶え間なく更新され、普段とはリポストの数も桁が違っている。
「朝投稿したやつが、ちょいバズってるみたい」
「え、すごいじゃん! 仁志、やったね!」
「いやぁ、まあ、すぐに落ち着くと思うけどね」
仁志は平静を装っていたが、その瞳には興奮と高揚が浮かんでいた。まるで、思いがけずスポットライトを浴びてしまった素人役者のような、戸惑いと誇らしさが入り混じったような顔だった。
翌日から、仁志のSNSにはフォロワーがどっと増えた。DMも届き、なかには「ぜひ一度お話を」といった出版社からの連絡もあった。
「まさかこんなことになるなんてなあ。いや、ずっと描いてはいたけど、これは……夢みたい」
最初のうちは、仁志自身が一番驚いていた。何度も「本当に?」と画面をスクロールし直していたし、返信に悩む様子も新鮮だった。
しかし、それもほんの束の間。編集者との打ち合わせが入り、作品がまとめて紹介される記事が出て、小さな媒体ながらも連載の打診がきたころには、彼の口調や立ち居振る舞いに、以前とは違うものが混ざり始めていた。
「どんな形でも、マンガを描き続けて正解だったよ。俺の才能を認めてくれる人がこんなにいるんだからな」
そうだね、と返したものの、葵の心はざわついていた。
完全分担制だった家事の負担は、明らかに葵側に傾いていたが、仁志はそれを当然と思っている節があった。めでたい空気に水を差したくなくて黙っていた葵だったが、1度生まれてしまった違和感は消えなかった。
ある晩、何気ない会話の中で、仁志がぽろりと口にしたのだ。
「やっぱりプロの世界って大変だよな。生みの苦しみって言うの? まあ、創作から逃げた葵には、その感覚、ちょっとわかんないかもしれないけど」
冗談交じりの口調だったが、その言葉は鋭く刺さった。
たしかに葵は描くことをやめた。でもそれは、現実を優先した結果だと認識しているし、そもそもプロを目指そうと思ったことはない。だから「逃げた」と評価されるのは、少し、違う気がした。
不安が葵の中に根を張り始めていた。
●ついに仁志は「漫画に専念するため」と葵に相談もなく会社を辞めてしまう。そんな仁志に苦言を呈す葵だが……。「嫉妬しているだけなんじゃないの」と返ってきたのは心無い言葉だった。だがもちろん、漫画の世界は調子に乗ったポッと出の新人がうまくやれるほどやさしい世界ではなかった。後編:【調子に乗って会社を辞めたはいいものの自室にこもりきりに…漫画がバズり天狗になっていた夫が受けた当然の報い】にて詳細をお届けする。
※複数の事例から着想を得たフィクションです。実在の人物や団体などとは関係ありません。