読書用のタブレットから顔を上げ、葵はソファーの上で思いっきり伸びをした。サイドテーブルのマグカップをのぞき込むと、すでに中身はなくなっている。コーヒーを淹れなおそうと立ち上がったついでに隣の小部屋を見に行くと、夫の仁志がデスクに向かい、熱心にペンタブを動かしていた。彼は趣味で自作のマンガを描いているのだ。
「コーヒー淹れるけど要る?」
短く問いかけると、仁志は顔も上げず「うん、要る」と呟く。今日も集中しているようだ。
思わずふっと笑みをこぼし、マグカップを持ってキッチンへ入った。
葵と仁志が出会ったのは、大学のマンガサークルだった。当時、葵はどちらかというと読み専に近かったが、周りに触発されて描くことも試していた。友人と共同で同人誌を作成し、コミケに参戦したこともある。だが、すぐに才能のなさを自覚し、あくまで「創作は趣味」と割り切った。卒業後は、きっぱりと絵を描くことを辞め、今は推しのために時間とお金を費やしている。
しかし、仁志は少し違った。彼の創作熱が冷めることはなく、学生時代からずっと変わらずに描き続けている。ただし、本気でマンガ家を目指しているというわけではなかった。
「俺さ、別に絵で食っていこうとかは思ってないよ。好きだから描いてるだけ」
サークル仲間から将来について聞かれ、あっさりとそう答えていた仁志の笑顔が、今でも記憶に残っている。
現実主義という共通点を持つ葵たちは相性が良かったのか、自然と交際に至り、社会人になってからも良好な関係が続いた。
結婚したのは30手前のころ。お互い「子どもは、まあ、いいかな」と一致していた。どちらかというと、葵の方が強く「持たない」選択を望んでいたのだが、仁志は反対しなかった。
暮らしは派手ではないが、葵は仁志との結婚生活に充分満足している。共働きで財布は別。
家事は分担制。互いの趣味や時間には干渉しない。
それが、葵たち夫婦のかたちだった。