なぜ登山を始めたのか
「俺が登山を始めたのは24歳のときでした。前の職場でいろいろあって、特に人間関係が最悪だったんです。人の目とか、言葉とか、もう何もかも嫌になって、何も聞こえない場所に行きたかった」
「山って、そういうところですか?」
「少なくとも俺にとっては、そうでした」
そう言って、彼はまた静かに歩き出す。
「登山ってさ、頂上に着いたからって何か特別なご褒美があるわけじゃない。でも、行って、帰ってきたっていうだけで、ちゃんと“やった”って思える。自分が前よりちょっとだけ良い存在になったような感じがする。まあ、ちょっとだけですけどね」
少し照れくさそうな木波さんの言葉に、輝子は視界が開けるのを感じた。そうか、無理をしたのは、登山がしたかったからじゃない。何かを“やった”って、証明したかったからだ。
「私、ちょっと泣きそうです」
「泣いていいですよ。どうせ雨でバレないし」
ふいに、くすっと笑ってしまった。笑ったあとの涙が、静かに頬を伝った。
「それにしても意外でした」
「何がです?」
「佐藤さんの自己評価の低さが、です。俺、目標にしてるんですよ、佐藤さんのこと」
「え、嘘……」
「ホントです。だって、仕事教えるの上手だし、いつも周りから頼られてるじゃないですか。人柄って言うのかな、俺にはないものを持ってて羨ましい」
「木波さんだって、すぐうちに馴染んだじゃないですか」
「いや、これでも対人コミュニケーションにはコンプレックスがあるんですよ。俺、若いころは物言いがストレート過ぎて誤解されることが多かったから」
「そう……なんだ」
「そうです。佐藤さんは、自分で思うよりちゃんとやってる。生きがいとか趣味があるかどうかより、誠実に仕事して、人から信頼されてることの方がすごいと思う」
また泣きそうになるくらい、あたたかい言葉だった。ずっと抱えていた空虚さが満たされるほどに。頂上の標識が見え始めると、空の向こうで雲が切れ、わずかな光が差し始めていた。